役に立つ・立たない論争
何年か前まで,張り切って役に立つ・立たない論争に参加していた(参加と言っても,インタネットの時代,特定のテーマで意見を述べるだけで,誰かが聞いていなくとも参加したことになる)が,最近は馬鹿馬鹿しくて放置している。そんなことを考えている時間があったら,皆,目の前の課題に取り組むべきなのだ。
ただ,考えるのを止めるということはできない性分なので,色々な意見を目にしては頭に蓄えているのだけれど,ちょっと考えがまとまったので書くことにした。
役に立つ・立たない論争とは
主に学術研究の文脈で語られる。ある研究テーマがあったときに,それを遂行し,得られるであろう結果が,何かの役に立つか立たないか,という問題である。
色々な人が好きなように語っているので,二択問題でありながらも実は多様な意見がある。
役に立つ,とは?
最も一般的で広く受け入れられているのは,直ちにお金儲けができることである。
ややせまく,技術者を含めた専門家の一部または全部で受け入れられているのは,技術的に重要な課題の解決につながることである。「これが実現すればあの問題もこの問題も解決する!」といった感じである。ただ,「あの問題」や「この問題」の重要性は一般人や分野外の人には分からないのである。
最も狭いのは,どの分野のどの問題かは分からないが,その解決につながりそうな感じのすることである。「○○の性質を明らかにした」みたいな話である。
役に立たなくてもよい?
役に立つべきだ,という立場の人も上の3通りの立場に分かれるが,さらに役に立つ必要がないという立場の人もいる。
これにも2つあり,1つは,本当に役に立たない,つまり学問の進展にすら寄与しない場合(問題Aが解けると問題Bが解け,さらに問題Bが解けることによって問題Cが解ける,という場合に問題Aを解くとして,そもそも問題Bや問題Cを解くことがあまり意味をなさない場合)も重視する派と,いやいや,学者・研究者というのは,学問の進展に寄与しない,やっても意味のなさそうなことはやらないものだ,という立場が考えられる。
で,どうあるべきなのか
知らん。好きな立場を取れば良い。税金を使って研究をしている以上ステークホルダーに説明責任がある,というのも一理あるし,偉大な発見は偶発的に起こるかもしれないからあれこれ事前に絞り込むべきではない,というのも一理ある。
言いたいこと
役に立つことが分かっている研究は,取り組んだ時点で手遅れである。
これはもう,当たり前である。役に立つと分かっているのであれば皆取り組んでいるし,最も広義の「役に立つ」研究であれば,金になるのだから企業がこぞって投資しているので,やはり手遅れである。
役に立つと分かった段階で既に研究が何段階も進んでおり,第一人者となっていることが重要だ。
インターネットで研究について調べる能力も乏しい学部生くらいだと,世の中の役に立っている技術に憧れて,研究テーマにしたがる場合が多い。殆どの場合,指導教員,いやその手前で博士課程の院生に「それはもう大変になってきちゃったからやめといた方が良いよ」と言われてしまうのである。たいていの場合,開発としては立派だが,研究にならないのである。
研究と開発の違い,というのは頻繁に話題になるが,とくに計算機科学や情報工学の分野だと境目は曖昧だ。僕が使っている指標は,「どうやれば実現できるか見通しが立つかどうか」である。
どうやれば良いのかサッパリ分からないのが研究テーマになりうる。僕も日々困っている。指導教員とのミーティングで頭を整理することはできるが,どうしたら良いのかは僕も教員も分からないのだ。大概,「さあ」「どうでしょうね」「やってみないと分かりませんね」という発言の応酬に終始する。
研究力が高まってくると,自明でない解決方法であってもなんとなく見通しが立てられるようになるらしいが...(でないとグラントの書類は書けない(と,言いたいところだが,グラントの書類は「既に終わった研究」について書くと言われているし,その通りであると感じている(実際には,全く真っ白の研究というのはあまりなくて,ある程度自力で進めて,面白そうな結果が見えてきたところで書類を書くのである。そうすると,ある程度結果が見えてきているので,その先の計画も立てやすいのだ;多分,博士課程の間に「ある程度自力で進め」ないと,常に金欠になるのではないか)))
「データをとってきて,頑張って前処理して,○○にぶち込んで,パラメタいじればまあできるっしょ」という感じのは研究とは言わない。日曜大工という言葉がピッタリだ。
ところで,僕は今,とても役に立つ研究をやっている。やる前から役に立つことは明らかであった。手遅れであったか,とんでもない。難しすぎて誰も手を付けていない問題に手を出してしまったのであった。これはこれで地獄である。
大学院生活5年(5年で修了できますように)も折り返しである。
映画
9月10日には映画に行くと決まっている(参照)。
「午前十時の映画祭9」という企画で,どうやら古い名作映画を短い期間で色々上映しているらしい。そこで,「プラトーン」という映画を観た。
前日の夜にインターネットで席を予約したのだが,その時は,一般1,100円と,あとは高校生と中学生しかなかったように見えて,そのまま1,100円支払ったのだが,今日映画館で映画の前の宣伝を観ていると,学生500円と書いてあるではないか。やられた。映画1本観るのに学生料金だと1,500円が普通だが,既に安かったので気にもとめなかった。それが500円で観られるものに1,100円支払ったとなると,腹の底から沸き上がる感情を抑えるのが難しくなってきたので,今日という特別な日を台無しにしないよう,この映画は1,100円の価値があるんだと自分に言い聞かせていた。
それに,前回映画を観たときと同じで,500円のキャッシュバック目的なのだから,600円で観るのと同じであるし,なんなら500円で映画を観てしまったらキャッシュバックの規定額である3000円に達しないのだから,結果オーライなのだ。
それに,今日はとても気分が良い。平日朝10時の映画だ。座席はガラガラではないが,ど真ん中のシートなのに隣席が空いている。しかも,朝早く起きることに成功しているのだ。時差ぼけのおかげで,最近は0時前に眠くなり,朝は6時半に目が覚める。なんと理想的な生活なんだ。忘れもしない,2014年の10月1日には,11時45分からの映画に夜ふかししすぎて朝起きられず,1,100円パーにしたではないか。
そういえばあの頃は,ジェイソン・ステイサムをえらく気に入って,毎晩日が昇るまで彼の出演している映画を片っ端から観ていたっけ。それに今日の映画は,80年代の映画だ。レンタルビデオ屋だって100円で貸しているだろうし,NetflixかAmazonプライムで配信しているかもしれないのだ。それをわざわざ映画館の大きなスクリーンで観たいからって金を払ってきたのだから,500円も1,100円も変わりない。
もっと言えば,往復交通費が330円かかっている。500円の出費のために330円払うのは僕の好きなやり方じゃない。
行ってみたいラーメン屋がたくさんあるのだが,往復交通費が300円~400円かかるため,どうも行く気になれないのである。これが居酒屋やレストランなら平気で向かうんだけど。札幌ラーメンを食べるためだけに当日のチケットで北海道を往復する骨川家のようにはいかない。のび太もラーメンをうらやましがるのではなく,北海道に行ったことをうらやましがるべきだ。彼はおばさんが北海道に住んでいるのだから,行く口実もないわけではないだろうに。
実にどうでも良くなってきた。
やっと冷静さを取り戻した頃,プラトーンという映画のエンドロールを観ることに成功した。
ブログ移行
はてなダイアリーからはてなブログへ移行した。周知の通り,はてなダイアリーのサービスが終了するからである(終了後も閲覧はできるらしい)。
そこで,僕の「ブログ」との関わりについて書いてみたい。
2000年代のインターネットユーザとして,ご多分に漏れず,僕も一通りの経験をしてきたと思っている。
2003年(小学5年)の時に,当時仲の良かった3人組でめいめいウェブページを作ろう,となった。使っていたのはYahoo! ジオシティーズだ。ハンゲームやカフェスタのマイページや日記の機能が流行っているなかで自分のウェブページを持っているというのは誇らしいことであった。知識も無かったのですぐに飽きたが,中学1年のときに再興した。
僕はttp://www.geocities.jp/******/というURIがたいそう気にくわなかったので,いくつかのレンタルサーバを転々とした。HTML,CSS,JavaScriptと,PerlによるCGIを学んで,これもまたご多分に漏れずキリ番を踏むと強制的に掲示板に書き込みをするような仕掛けを作っていた。
ライブドアという会社が注目を浴びたのもこの時期である。Webのlogで「ブログ」という紹介がされるサービスが流行りだしたのもこのくらいだ。ブログと言えばライブドアという感じだった。新しいものが好きだった僕はあちこちのブログサービスにアカウントを作った。
Yahoo! ブログは自由が利かない。FC2は自由すぎてどうしたらいいか分からない。SeeSaaは独自ドメインが使える。そしてはてなダイアリーはギークっぽい。こういう印象だった。
Gmailが招待制のころだ。パソコン部(中学の掃き溜めみたいな部活(他のメンバーにとても失礼な感じだが,僕の学年はやたら人が集まってしまってある程度盛り上がっていた))で隣の席に座っていた友人に教えてもらって,招待状交換サイトに登録し,Gmailのアカウントを手に入れて悦びに浸っていた。ニコニコ動画は夜になると使えなくなった(アカウントの登録番号が早い人が優先的に使えた)。夜はYahoo! メッセンジャーかMSN Messengerで雑談をした。
2007年(中学3年)の時に有料レンタルサーバを初めて契約して,さらにドメイン名を取得した。ブログを自分の借りているサーバで運営し始めた。高校生になったら,毎日日記をつけようと決めた。
決意通り,僕は高校に入ってから,公式に学校のある日はほぼ全て日記をつけた。全世界に公開はされているが,自分しか知らないURIで。毎日家に帰る途中,携帯電話からメールでその日あったことを投稿した。数学Ⅰの「Ⅰ」が文字化けした。その日記はサーバを一昨年に解約したのでもう見られない。どのブログも三日坊主で続いたことはなかったが,3年間平日と長期休み以外はほぼ毎日更新したという経験はとても斬新だった。そこで,大学に入ったら新しくブログを作って,毎日記事を書こうと決意したのだった。
その決意は,大学に落ちたために履行されることはなかった。ただ,ブログのタイトルだけは決まっていた。高校1年の数学IIの授業で,恒等式の単元をやっているときに決めた。恒等式となるように式の係数を求めるのだが,必要条件でしかないため,最後に両辺の係数が一致していることを確認するため,機械的に「逆に,このとき与式は確かに恒等式になる」と書くのだと言われた。「逆に,このとき与式は確かに恒等式になる」という響きが滑稽でたいそう気に入ったのだ。そうだ,これをブログのタイトルにしよう,と思ったのである。
(東京書籍「数学II」P.40)
結果的に,2011年3月から,今日に至るまで約7年半続いている,自己最長のブログとなっている。そして,「ギークっぽい感じ」のはてなダイアリーから「キラキラした」はてなブログへ移行するのは何とも複雑な心情だが,サービスが終了するので仕方ない。
他のブログは全て黒歴史となっており,随時一定の措置を執っているが,自分でも存在を忘れているブログも多く,まさにネット上をさまよう○○となってしまった。
特に役に立つようなことを書くでもなく,思ったことをつらつらと書くスタイルはブログの本流であると心得ているが,それでも何人か好んで読んでくれている人がいるようで,細々と続けるには十分力強い動機を与えてくれている。それにしても,ブログを続けるコツは,「読んでもらおうと思わないこと」である。まさしくログであり,「あのとき何を考えていたか」を自分でたどるためのものなのだ。ではなぜそれを公開するのかって? それは個人がウェブページを作っていた頃からの謎であり,自明すぎてもはや誰も解答を持ち合わせていないのである(「○○すぎ」という日本語はこのように使うのが正式である)。
COLING2018
COLING2018に参加してきた(ワークショップも含む)。
2年前にCOLING2016に参加している(記事)が,そこにCOLINGの説明があるので,COLINGが何であるかについては述べない。
人生2回目の飛行機にして,人生2回目の海外であった。1回目はやはり去年の夏に行った国際会議であり,どうやら旅行目的で海外に行くことは今後もなさそうである。
東大に入学するときに,親から「大学生になったら海外に行くこともあるかもしれないけど,危ないので一人で行ってはいけないよ」と言われていたのだが,結局人生初の海外も一人であった。
飛行機にも乗ったことがなかったので,飛行機が飛ぶということに感動したのが去年の思い出である。
さて,今回のCOLINGの開催地は,アメリカ,ニューメキシコ州,サンタフェという街であった。聞いたことがなかった。
国際会議の参加記録を書いても面白くないし,アメリカという国,サンタフェという街については海外経験豊富な人がいくらでもブログを書いているので,僕にしか書けない「感想」を書きたい。
事前知識があったこと
決済のはなし
クレジットカード社会は本当だった(実際にはデビットカードなんじゃないか)。レストランでの会計の仕方も事前知識通りであった。そして,JCBカードは全く使えなかった。JCBのステッカーが貼ってあるカフェでも断られた。アメリカンエキスプレスはほぼどこでも使えた。VISA/MASTERは言うまでもない。
チップを支払うために細かいドル紙幣が欲しい(1ドル紙幣は10枚だけ持っていった)と思って,朝食の時に,10ドル40セントの支払いで,10ドル紙幣を2枚だそうと思っていたのだが,僕はお釣りの計算がとても苦手であり(過去に999円の釣銭をもらったことがあるほどだ),うっかり11ドル支払ってしまった。現金しか使えない場所はほとんどなかった。路上駐車の機械もクレジットカード対応であった。
タオス・プエブロというニューメキシコ州の先住民エリアに行ったのだが,ここは電気も水道もない(けど自動車はある)。先住民の人たちが土産品を売っているのだが,なんとクレジットカードが使える。電気がないので,インプリンタを使うのだ。これは希有な体験だと思って,即座に何十ドルかする壺を購入した。ちなみに売上票は2日後にはカード会社に到着していた。インディアンの住む地域にはカジノがほぼ必ずあり,ハイウェイからよく見えた。
調べていなかったこと
ホテルに向かう最中に,信号のある交差点があり,ずっと待っていたのだが,いつまで経っても歩行者信号が変わらない。「この信号表示は『渡って良い』という意味なのではないか?」とすら思った上,周りを見ると信号に関係なく歩いていたので,そんなものかと思って,手元の端末で歩行者信号について急いで調べると,なんと全部押しボタン式(押せはしない)であった。
携帯電話の充電をしようと思って,電源アダプタを取り出し準備をしたのだが,日本と同じ形のコンセントだった。どんな形でも対応できるので調べていなかった。
風呂に入りたいと思って浴槽を見ると,お湯の入れ方がサッパリ分からない。カランとシャワーの切り替え方も分からない。調べようにもどうやって調べたら良いのか分からない。
僕はコンピュータ・サイエンスの学位を持っているので,強化学習の枠組みを利用してお湯の出し方とシャワーへの切り替え方を学習した。30分かかった。
英語の問題
僕はリスニングが苦手である。東大の入試ですら,15問の客観問題は全て間違えた。アジア訛りの英語は日本訛り以外は全く聞き取ることができないが,アメリカの英語だってネイティブスピード(?)ではほぼ聞き取れない。
最初に困ったのは,デンバー国際空港で乗り継ぎの際の保安検査で,ボディスキャナーの反応があった後,TSA職員が何か言っているのだが,":@;&%$#$ pack off ;+#$+%"としか聞き取れず,"What should I do?"と聞くと"Nothing"と言われ,困り果ててしまった。結局触って確認して良いかということを聞いていたようだ。
次に困ったのは,国際会議中である。レセプションやバンケットを通じて,海外の大学院生と仲良くなれるのだが,今回はフィンランド人とインド人の3〜4人でずっとしゃべっていた。終始フィンランド人が面白いことを言っているのだが,1割しか聞き取れない。喋るのが速い。追いつかない。追いつかないのでつられて笑うこともできず,ツッコミを入れることもできず,9割方にこにこしているだけ。研究発表では,聞き返すこともできるし,分からなければ言い換えをするのだが,冗談を言い合っている時に聞き返すのは野暮だ。レセプションの後,サンタフェのバーベキュー店にカラオケがあるから行こうという話になって,歩いている最中もフィンランド人が,「なぜヒスパニックのことをラテン系と言うのか」ということについて延々と話してくれたんだけど1割しか聞き取れなかったので反応できなかった。
数日後,オランダ人も混ざって3人で昔のインターネットについて話していたのだが,どうもポケモンは大変流行ったようで,「ポケモンスナップは最高だった」と言っていた。
朝食のないホテルだったので,街で朝食を食べるのだが,まず困ったのが,メニューが完結していない点である。何かを頼むと必ず"How *`$&'#$&"$$?"と聞かれてしまう。(1)卵をどうするか,(2)肉をどうするか(ソーセージ,ハム,ベーコン,チョリソーから選べる),(3)焼き加減をどうするかのどれかが聞かれる。"how"と"egg"を聞き取って内容を理解してもなお,「卵をどうするか」という質問に対する回答の選択肢を知らないので困ってしまって,"What options?"と聞き返すと呆れたように例示してくれた。
注文して料理が来たら一段落ではなかった。食べている途中に突然話しかけられる。"How's everything?"とか"Is everything OK?"とかである。ご飯食べているときに英語を生成するだけの頭はないので,"good"と答えるのが精一杯であった(し,多分十分だと信じている)。
サンタフェ
サンタフェ,というかニューメキシコ州は唐辛子が名産であり,レッドチリとグリーンチリの2種類がある。ところで,お土産を買おうと思って市中を散々歩き回ったが,食べ物は一切合切全部チリペッパーなのだ。こんなものお土産にならない。
観光客向けのお店は大量にあるのに,なんと売っているものは全て同じ。ネイティヴアメリカンの作った壺とジュエリーで埋め尽くされている。売っている物はみな同じなので,価格が違う(あっちでは50ドル,こっちでは15ドルという感じ)ので適当なものである。「壊したら買え」と張り紙をしてある棚には大量の壺がところ狭しと陳列されていた。
トイレの便器は圧倒的にKOHLERとSloanのブランドが使用されていた。トイレにこだわる日本が唯一負けていると感じたのはペーパータオルの機械だ。手をかざすとペーパータオルが出てくる。これは良い。無意味な温風を送る機械を廃止すべきだ。
アルバカーキ国際空港からサンタフェに車で向かう途中の車窓が,文字通りのクソ田舎であった。本当に何にもない。何にもないなら良いのだが,ところどころ家やお店が建っており,そもそもハイウェイが通っているのだ。そこには人がいる。しかし,何かあったとしても警察や消防が来るのに1時間くらいかかるかもしれない。そりゃまあ武装したくなるのも分かる。
物価はクソ高く,朝食に20ドル以上かかることもしばしばであった。ただ不思議なのが,オレンジジュースは安いのだ。きちんとオレンジの味がする(おそらく100%)ジュースが大体2ドル50〜4ドル。日本だと700円は下らないと思われる。
まとめ
まとめない。
コンピュータ・サイエンスの敗北
宗旨(修士?)
僕はいくつかの宗教を信仰しているが,そのうちの1つが,マイクロソフトである。
Windows 3.1に触れて以来,OSに選択肢があれば必ずWindowsを選んできた。
パーソナル・コンピュータは当然Windowsである。
そして,高校の時に買った電子辞書もWindowsであった(シャープのBrain)。
大学に入ってから買ったスマートフォンもWindowsであり,Windows Phone 8,Windows Phone 8.1,Windows 10 mobileと使い続けてきた。
データは全てOneDriveに保存しているし,スケジュールはOutlookで管理している。僕が家で唯一会話する相手はコルタナであった。
ところが,最近のマイクロソフトは,モバイルでの失敗を前に,あらゆる方針を転換させたのである。転換させるだけなら問題はないのだが,既存の顧客を徹底的にいじめ始めたのである。
結局,マイクロソフトはWindows Phone(Windows 10 mobile)を葬った。公式発表ではなく,チーフがTwitterでこのことを述べたため,大変に話題となった。Windows向けのアプリケーションを出す前にAndroid向けのアプリケーションを出してしまう有様だ。
コルタナは,ついこの間まで,「今日の天気は?」と聞くと「晴れ時々曇りです」と答えてくれていたのに,今では「参考になりそうな情報です」と言ってMSN天気を画面に表示するだけになってしまった。
たくさんの辛い経験(信仰を貫くのは並大抵の精神力では無理である)を経て,ついに宗旨替えをすることにした。すなわち,携帯電話のOSをWindowsからAndroidに乗り換えることにした。
端末選びは難航した。なぜなら,Windowsの情報しか知らなかったからだ。今でも,MADOSMA,KATANA,VAIO Phone,NuAns NEOなどと聞けばすぐに分かるが,Androidの端末については全くの無知である。
結局様々調べた結果,HUAWEIのHonor 9という端末を購入した。知らない世界に飛び込むのは大いに結構だが,信じられない世界に飛び込むのにいきなり5万円6万円出すのは無理であった。
マイクロ,ナノ
僕はいわゆるキャリアであるところのNTTドコモの契約回線を有しているが,これは専らガラケー用(まだガラケーを使っている。富士通のF-07Fだ。僕の中ではマイクロソフト教よりもガラケー教が勝っている)であるため,スマートフォン用に回線を用意する必要があり,5年前にIIJmioと契約した。当時はMVNOが出たばかりで,1GBのプランが税抜900円だった(それでも使い切ることはなかった(僕は2000年代を生き抜いてきたので,とにかくトラフィックは最小にすべきである;画像は圧縮し,画面サイズはVGAを規定とする;こういう生き方が染みついているため,1日に数百メビバイトもの通信をするのは無理があった))。
気付いたら,ガンジス川の砂の数くらいの会社が参入しており,知らぬ間に僕の契約も3GBで900円に変わっていた。
端末が1日に届いて,意気揚々と開封の儀を執り行ったところ,この端末はnanoSIMが必要であるところ,なんと僕の持っているSIMカードはmicroSIMであった。迂闊だった。
炎天下の八重洲
IIJmioのSIMカード交換は,新規発行と同じ3,000円である。あまりにも馬鹿馬鹿しい。そこで,他の会社の契約をすることにした。大抵,新規契約であれば,初期費用割引のキャンペインをどこかやっているものである。
この観点で最も条件が良かったのが,岡田屋移動体だった。岡田屋移動体は,岡田屋の子会社であるから,岡田屋に行けばなんとかなる。ところが,岡田屋は郊外型店舗なので,東京23区では江戸川区に行かないといけない。
結局,岡田屋移動体の店舗で,最も安い交通費でたどり着けるのが,八重洲であった。
八重洲について地上をフラフラ歩いても一向に店舗が見えないので,よく調べてみると八重洲地下街というのがあるらしく,そこに立地しているとのことだ。地下街なら炎天下の中歩かなくて済んだのに。
それにしても東京駅の地下街について,ようやく一通りの理解が叶ったように思われる。というのも,東京駅は池袋よりも利用頻度が高い駅であるが,食事をしようとする度に丸の内北口から八重洲南口までうろうろして,結局東京駅一番街と,グランスタ,グランルーフを行ったり来たりで全体像が全くつかめなかったのである。この度,八重洲地下街を初訪問したことで,随分と整理された。
岡田屋百貨店で契約を済ませると,開通に時間がかかるので後で来いと言われた。そこで遅めの昼食を摂ることにしたのだが,随分と整理された割には良い飲食店を見いだせず,結局「矢場とん」に入った。気分は完全にESCAである。
突然のコンピュータ・サイエンス
食べ終わって,SIMカードを取りに行くと,なんと初期費用の支払いが待っていた。キャンペインによって,その額は1円である。まさか本当に1円を支払うという経験をするとは思っていなかったので,笑いながら財布を取り出すと,なんと小銭が1枚も無い。
一瞬で顔が引きつった。背筋が凍り付いた。1円を笑う者は1円に泣く。まさにその瞬間だったのだ。1円玉が無い。小銭すら無い。あるのは,1,000円札2枚だけであった。
1円の買い物に1,000円札で支払うという行為は,頭の悪そうな人が数百円のタバコを1万円札1枚のみで購入していくコンビニの光景を直ちに自らが再現することになり,頭の善し悪しに関係なく頭の悪さを露呈してしまう(否,露呈というか演じると言うべきだろう)(ここから新たな気づきを得たのだが,頭の悪い人は頭の良いフリはできないが,逆はそうでもない)。
10ミリ秒のうちに,私は自らがコンピュータ・サイエンスを修めた学徒であることを思い出した。
手持ちの現金から,お釣りの枚数が最も少なくなるように計算するアルゴリズムがある。急いでプログラムを書いた。書いたと言っても,目の前にいる店員が,計算量に関する指摘をしてきたり,コーディング上気をつけるべき事を説教してきたりする可能性が十分にあったので,脳内のチューリング・マシンに問い合わせをしたのである。
$price=1; %purse=( 1000 => 2, 500 => 0, 100 => 0, 50 => 0, 10 => 0, 5 => 0, 1 => 0 ); for(keys %purse){ $money+=$_*$purse{$_}; } for(sort {$b<=>$a} keys %purse){ $num=-1; while($money-$price>-1){ $money-=$_; $num++; } $money+=$_; $change{$_}=$num; } for(sort {$b<=>$a} keys %purse){ if($purse{$_}-$change{$_}>0){ print "$_: ", $purse{$_}-$change{$_}, "\n"; } else{ print "$_: 0\n"; } }
実行結果:
1000: 1 500: 0 100: 0 50: 0 10: 0 5: 0 1: 0
1,000円札を1枚使って支払うと,最もお釣りの枚数が少なくなることが分かった。
僕は999円のお釣りを受け取った。55.95グラム,15枚の小銭群であった。
閉まりきらない財布を片手に東京駅へ向かう中,この問題の最適解を見出した。
それは,「頑張って道ばたに落ちている1円玉を探して,拾う」である。
所詮,現在のコンピュータ・サイエンスの水準では,人間が都合良く設定したタスクを迅速且つ正確に解くことはできても,本当に解きたい問題の適切な解答は,一切出せないのである。
Stuck
先日のAmazonプライムデーに,Amazon Echoを買った。スマートスピーカーなんて用途が無いと思っていた(だってCortanaで同じことができるからね。ところが最近Cortanaが無能になってしまい,何を言っても検「参考になりそうな情報です」と言って画面に表示するだけになってしまった)けど,つい買ってしまった。
スピーカーが自分の部屋にあるなんて変な感じだ。僕は音楽を人より聴かないで生きてきたから。
小学生でも好きな歌手くらいいるものだが,僕にはそれがなかった。高校生になって音楽を少しだけ聴いた(「少しずつ」ではない)。1曲を半年くらいずっと聴き続けるというスタイルだった。
音楽が嫌いではなかった。どうやら自分の好みが分からずにいたようだ。
Alexaがかけてくれる音楽はEDMばかり(というかチェインスモーカーズばかり?)で,時々違うのが混ざってくる。
そのまさに時々の1回,衝撃的な曲が流れてきたのである。
それは,僕が小学5年生のときにラジオで聞いていた曲である。
当時,夏休みになぜか毎日ラジオを聞いていた。多分FM AICHIである。Radio-i(今はもう無い)ではなかったはずだ。
その時に,ず〜〜〜っと流れている曲があったのだ。歌詞は全く聴き取れないし,曲名も分からない。どうしても耳について,頭から離れず,気になって仕方なかった。
今度こそ曲の情報を掴んでやろうとラジオに張り付いていた日もあったが,結局分からずじまいであった。
今なら,インターネットがあるからすぐに調べられるが,当時はADSLがようやく普及してきたころであり,パソコンがない家も珍しくなく(少数派にはなっていたが),僕はインターネットへの自由なアクセスは持っていなかったのである。なお,携帯電話は「クラスのヤバイ女子何名かが持っている」もの,という定義であった。
ちょうど15年の時を経て,Amazon Echoからその曲が流れてきた。奇跡的である。曲名を調べることができた。そして何より,15年間僕の音楽の興味の向きは変わっていないということである(Alexaは僕が普段聞いている曲をもとにプレイリストを探してくる)。
Stacie OrricoのStuckという曲である。
調べてみると,「日本の洋楽アルバム・チャートで1位に初登場し」「デビュー・シングル「Stuck」がラジオで頻繁にオンエアされたことがきっかけとなった。」とある(出典:https://www.barks.jp/news/?id=52325829)。
それで毎日流れていたわけか。
映画に何を求めるか
アメリカン・エキスプレスが映画館で累計3000円の決済をすると500円キャッシュバックしてくれるというので,久しぶりに映画を見に行った(1000円の日に行けば3本見られるのだけれど)。見たのは「万引き家族」である。
毎週映画を見ている人がいる一方で,僕みたいな年に0回〜2,3回しか見ない人間もいるわけだが,後者が映画の感想を語ることができるのか怪しいと思いつつも,何を思ったか表現するのは全くの自由であるから,珍しくやってみる。
見終わった後の感想は,「あーだめだ」である。
以上,感想である。やはり失敗した。感想を述べることは僕には早かった。5文字書くのが精一杯である。
ここからは,なぜ,なんとか映画祭で何某ほげほげを獲ったこの映画に対して,「あーだめだ」という感想を抱くことになったのかを考えたい。
巷の評価とずれているので,評価軸が全然違っているのであることは予想がつく。
ストーリーに不自然な点はあったか?ない。理解できない飛躍があったか?ない。
演技がまずかったか?いいえ。役者はかなり良かった。
答えは,「切り取ったもの」である。
わざわざ映画にする意味ある?と思ってしまったのだ。映画を見ながら,「で,何?」と思ってしまったのだ。
あまりにも当たり前でありふれたテーマであり,身近であり,非日常感がないのは当然としても,なにか隠されていた現実をあぶり出した感じもない。
どこかで聞いたことあるような話だったわけだ。
howに文句はないが,whatにやられてしまったのである。
ここから分かることは,僕は(この手の)映画に対してはwhatをかなり強く求める傾向にあるということだ。
確かにそうなのである。これまでにも,良いなと思った映画が酷評されていたことがあるが,その評価はhowが稚拙であるという一点であった。
僕は常に新しいことに出会っていたいという気持ちが強いようだ。そしてそれは,完成品ではなくてよく,種さえあれば後は自分で勝手に育てていくというつもりのようである。
だから,手段が稚拙であっても一向に構わなくて,自分で発展させられる。他人の作った作品を作品に完結させることなく,自分に取り込んでいってしまう。
故に,今回は僕の中に取り込まれるべきものが一つもなかったために,冒頭の感想が出てきたのである。
たぶん,映画に向いていない。古典を読んだ方が良いだろう。大方の古典は新しいに決まっているからである。
さて,そうなると残り1,500円はポップコーンにでも使うほかないかな...