逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

Juvenile Delinquency

どの大学受験用単語帳にも必ず掲載されているが一度も使われているところを見たことがない語句,それがjuvenile delinquency(青少年非行)である。

 

英語の勉強をきちんとやろうと思って,某英語学校に通い始めて約1ヶ月が経過した(「nipox25 英語」などで検索すれば詳細が出てくるので,ここでは述べない)。

 

僕がいるクラスは,高校までの英文法については特に問題がなく例文くらいならササッと作れるが,長めの文(節が2個以上)になると厳しい,という感じのレベルの人が集まっている。周りの人たちのバックグラウンドはさっぱり分からないが,話を聞いている限りではずっとこの学校で学んでいる人が多いようである。

それにしても,某塾で5年間英語講師をしていたのは大きかった。文法事項について何ら困ることがないので,特に応用の面で力を発揮している。例えば,何らかの例文が与えられて,能動態を受動態にせよとか,時制を変えるだとか,そういったことを指示されてとっさに口から英文が出るかというと,結構難しい場合もある。この点,同じような文を毎日連呼していた経験が生きている。

それはともかくとして,1つの学校や1つの教師から何かを習うと,なんらかの方法論を獲得することができるわけだが,果たしてそれが普遍的なものであるか不安に思うことがよくある。中学でも高校でも予備校でも感じてきた。英語という科目は最たるもので,平素より英語が使用されている空間にいないのであれば,確認のしようがないのである。例えば,○○の用法を5種類習ったとして,果たして本当に5種類も使われているのだろうか,などと思ったりする。あるいは,○○というややこしい表現を習ったとして,本当にこんな言い回しをしているのだろうか,と思ったりする。そして,いつもと違う人から同じことを聞くと,たいそう安心するのである。「おお~○○と××の違い,ここでも同じように教えているんだ,安心した」といった具合である。そして留学生が使っているところを聞くと「おお,世界的に共通しているんだ良かった」と安心する。

 

先日,例のフィンランド人が横浜に来たので会ってきたのだが,会話中,pronunciationという単語を僕が発したところ,たいそう嬉しそうに「素晴らしい,うちの教授が大変喜ぶだろう」と言われた。日本の大学受験生なら誰もが知っているように,動詞のpronounceと名詞のpronunciationではnounがnunになっている通り,第2音節の発音が違う。なんでも,彼の教授はこの違いを非常に気にする性格だそうである。彼はブラックニッカハイボールをマズそうに飲んでいたが,「ブラックニッカ」はblack niggerにしか聞こえないため大変差別的な名前であると言っていた。確かにそう聞こえる。新たな気づきだ。

 

さて,今日ついに,7年の時を経て,juvenile delinquencyという語句に出会った。感動的である。同時に,僕は7年もの間,青少年非行に関する英語で書かれた文章を一度たりとも読んだことがなかったということが分かってしまった。

学んだことは直ちに使おうと努めなければ,使うべき場面に出くわすのに7年くらいかかってしまうということである。そして,7年経っても忘れないように知識はいつでも出せるように時々脳内で反芻しておかなければならないのである。

Strangers' Non-verbal Communication

これは,東京の都心で繰り広げられている,見知らぬ者同士のノンヴァーバル・コミュニケーションを書き起こしたものである。

 

「む!」

『む!』

「このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる」

『このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる』

「これ以上速く歩けないので減速するしかないな」

『これ以上速く歩けないので減速するしかないな』

「減速」

『減速』

「なんと!」

『なんと!』

「こいつ認識しているな...」

『向こうも減速したか...』

「そっちは...」

『こちらは右に曲がりたい』

「なるほどではこちらも右に避ける」

『よし左に行くようだな』

「よし左に行くようだな」

 

この間僅か0.5秒,歩数にして1歩である。

 

うまく行かないパターンは2通りである。

まずは,コミュニケーションは取れているが片方の頭が悪い場合。

「む!」

『む!』

「このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる」

『このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる』

「こっちは左に曲がることができない」

『左に曲がります』

「それだとぶつかる」

『左に曲がります』

「だからこっちは右にしか行けない」

『ぶつかる』

「ぶつかった」

 

もう1つは,片方にノンヴァーバル・コミュニケーションの能力がない場合である。

学振面接(DC)

昨日の夜,飯田橋の「つじ田」でつけ麺を食べていたら,荒城の月が流れていた。荒城の月といえば,山田耕筰作曲(本人は編曲だと言っているが,メロディを変えてしまうのは編曲とは言わない)のものが有名だが,オリジナルは滝廉太郎作曲である(音楽の授業でどちらが好きですかと聞かれた記憶がある)。本件について最も有名なブログ記事があるので興味があれば読んでみると良い。

d.hatena.ne.jp

半音云々といえば,グリーンスリーヴスも旋律を思い出してみると,「ソシードレーミレー」と来て若干の違和感がある(階名がスラスラと出てくるので,恐らく小学校でリコーダーか何かを使って演奏させられたものと推定される)。ここでいう「ミ」が半音低かったようなそうでもなかったような感じだ。

そこで「グリーンスリーヴス 半音」で調べてみるとやはりいくつか該当する。

blog.goo.ne.jp

こちらは荒城の月と違って民謡なのでどちらが正しいのかハッキリさせる意味はないが,楽器によって異なるかもしれないという情報を得た。

グリーンスリーヴスについては以前書いたように,

nipo.hateblo.jp

小学校時代毎日聴いていたので,その時の旋律が耳に焼き付いている(なおこの幻想曲はAmazon music unlimitedに収録されている)。

しかし今聞いてみると,幻想曲は半音高い。そしてリコーダーを使った場合,わざわざ♭をつけることはしなかっただろうから,やはり半音高いのではないか。

低い方はどこで聞いたのだろう。

 

今日は,日本学術振興会特別研究員(学振DC)の面接選考だった。

あまりにも情報が少ないので,記録のために記しておこうと思う(こういうのは僕のお家芸?であることだ)。

まず,なぜ面接があるのか,という点だが(ここから先はある程度の事前知識が必要である),巷でまことしやかに言われている,予算編成の問題である,というのは,多分正しい(自民党が政権奪還した2012年12月の選挙の後,予算編成がどうなるか分からないということで結果発表が延期になったことは記憶に新しい)。

文部科学省の概算要求のページを見れば,文科省財務省に対して学振特別研究員のためにいくら予算を要求しているかが分かる。

そしてこれは,ふつう,最終的に通らないのだが,学振特別研究員については,ちょっとだけ増額されるのである。

2018年度の概算要求にある,採用人数の要求は,1,847人であり,1,778人(2017年度)から69名増えている。結果どうだったかというと,JSPSのサイトを見れば分かる通り,1,807人であった。ちなみに,この時,月20万円の研究奨励金の増額も要求しているが,はねのけられている。

来年度,2019年度予算では,なんと強気の2,154人を要求している。最大で347人も増えるとなると,予算が閣議決定される今月半ばまで採用内定を出し切ることは難しい。

ただ面白いことに,どの程度の人数を面接枠に持っていくのかは年によって違うようである。ここ数年は,殆ど面接無しで採用している。今回は,面接で合格するラインは4割くらいだと思われる(全体の採択率は毎年かなり安定しており,そこから逆算した;予算の増減関係なくね?とも思ってしまうが...)。

ここから本題である。

まず,10月の書類審査の発表で,面接候補と表示され,さらに面接の日時が画面に表示される。7日以内に出欠を返答しなければ欠席とみなされる。書類での通知や大学経由での通知は一切無い。

面接は,よく知られているように,4分のプレゼンテーションと6分の質疑応答で構成される。システムからA41枚のPDFファイルがダウンロードできるようになっており,そこに注意事項が書かれている。プレゼンテーションで含めるべき項目についても書かれている。

会場は,JSPSが入っている麹町ビジネスセンターである。面接日時に記されている時刻は,まさに面接の開始時刻であった。30分前に受付を済ませるよう指示があるが,受付後10分くらいで呼び出され,会議室の前で待機させられる。

小中学校の内科検診のように,流れ作業である。印刷資料は入室直前に回収される。手荷物も全て係員が持ってくれ,ドアも開けてくれるので,こちらはノートPCを手に持って入り,発表し,質疑応答を済ませ,ノートPCを持って退場するだけである。こうでもしないと時間が押してしまうのがよく分かった。

ビルのフロア自体がいくつかの会議室から構成されているのだが,会場はそのうちのいずれか,である。面接自体は何日かにわたって行われているが,今日は工学や情報学であった。控室では,一切の会話がない。みなPCに夢中であった。当然である。

会議室は想像以上に狭い。Uの字になったテーブルに,審査委員と職員が座っており,スクリーンの端に発表者用のPCを置く台があるが,普通の机なので,演台のように高さはない。入室し,PCをプロジェクターにつないだら(mini D-sub; いわゆるVGA端子; 控室に接続テスト用のプロジェクターが何台か置いてあった)直ちに発表が開始される。

タイマーが鳴ると,係員が「発表終了」というボードを掲げてこちらに合図する。話し終えると直ちに質問が始まる。これもまたよく知られているように,質問をしてくる先生は全員ではない。僕の場合は3名だった。矢継ぎ早にポンポンと質問が来る。6分しかないので,質問する方も大変であると思ったが,質問が途切れることはなかった。かなりフランクな感じで,「これ○○にも使えるんじゃないかねえ」とか「それどうやってやんの?」とか,いつもの進捗報告と大して変わらない感じである。これは情報学の慣習かもしれない。

作戦を立てる際にある程度予想していたように,具体的な手法云々について問うような質問はなかった。全体像を把握して何をしようとしているかを理解するための質問と,応用に関する質問が主であった。テーマ設定の動機(聞かれた)や,コネをアピールした場合にそれが本人のものなのか指導教員のものなのか(声が漏れているのでちょっと聞こえた),といった部分も聞かれやすいようだ。研究テーマにも依ると思うので何を聞かれても良いようにしておくべきではある。予備スライドを3枚作っていったが,うち2枚を活用することができた。

服装であるが,申請者の男性は僕以外全員スーツであった。女性はまちまちであった(女子高生かよ!!みたいな格好の人がいてウケた)。そんな10分の発表のためにスーツなんか着ていくかよ。終わったら研究室に戻って研究するわけだからね。

終了後は,直ちに退室し,かばんを係員から受け取って,すぐさま既に階下行きのボタンが押された状態のエレベータホールへ退出を促される。

ちなみに,ごたごたしていたら時間ギリギリになったので,会場へはタクシーで行った。東京駅方面から来るタクシーは実車ばかりだったので逆方向のタクシーを拾って「麹町まで」って言ったら「えっ」って顔をされた。しょうがないじゃん,こっちも「えっ」だよ。それでも都心のタクシーは優秀なので「麹町!新宿通り!」って言えば学振の前まで連れて行ってくれる。

日本語の矯正

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僕は常々日本語を正しく使いたいと思っている。しかし,「正しい日本語」なるものが何であるかはよく分からないので,これは単に日本語に対して保守的である,と言い換えられるべきである。そしてこの保守的というのは,程度問題である。いつの日本語を守るのか,が問題となるからだ。

時期だけが問題でもない。新しい言葉が生まれたときに,絶妙な表現だと感じる場合もあれば,嫌悪感を覚えることもある。言葉の意味が保存されている変化については,変化させる理由がないので否定的になる(当然,音韻論上の理由はある)。新たな意味が創出された場合には,使い勝手が良ければ使いたいと思う。

人間は母語をも文法的に捉え直すことができる。従って特に言語に興味のある人でなくとも,「それは『が』じゃなくて『に』でしょ」とか,「なんて言うのかな,こう,良い名詞が見つからない」とか,「食べられかけさせられそうになったってこと?(笑)」といった発話は珍しくない。

そうすると,例えば,いわゆる「ら抜き言葉」が嫌いになることもある(僕がそうだ)。なんなら,「行かれる」「歩かれる」などという表現が好きである。

ところが,三河弁では「食べれる」が正しい。こうしないと,「食べれーへん」「着れなんだ」などという表現ができない。

そこで,家族と会話するときは「ら」を抜いて,東京ではarを抜かない,といったことをしている。

2,3年前に思い切って直したことがあった。何かというと,読み方である。「十」という単語と,「存」という単語の読み方を変えた。

まず,「十個」「十階」「十点」などの「十」は「じっ」と発音するのが「正しい」ことはよく知られている。それまで「誤って」「じゅっ」と発音していたのだが,これをやめた。すると面白くて,街中で聞く「じゅっ」に強烈な違和感を覚えるようになったのだ。もう1つは,「既存」である。ずっと「きぞん」と発音していたのだが,「きそん」に変えた。最初は変な感じがしていたが,もうすっかり逆転した。「きぞん」と言われると気持ち悪い。とても面白いので皆さんも自分の信条に反しない限りやってみると良い。流行りなのは「ほっ」と読む「べき」「発」を「はっ」と読むことなので,もし「発起人」「発端」を「はっきにん」「はったん」などと読んでいたら楽しめるだろう。この辺りの話に詳しい方は是非コメント欄で蘊蓄を披露して頂きたい。

 

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ここからが本題である。冒頭にも少し述べたが,魔が差してクッキーを焼いた。

Cookie Clickerというゲームがあり,2013年からず~~~っとやっているのだが,その影響なのか(この後の文章を読めば分かることだが,この影響ではない),最近おいしいチョコチップクッキーが食べたくて仕方がなかったのだ。

先日,スペルメルカードで「ステラおばさんのクッキー」というのが売っていて,びっくりするくらい高かったので購入したところ,「う~ん」という感じだったのだが,いつもの森永のクッキーなどとは随分違ったので,調べてみたところ,アントステラという会社がびっくりするくらい高いクッキーを作っており,その会社を買収した森永が,森永の工場でブランドだけ借りてちょっと作ってみたクッキーだった。つまり合法的な偽物である。そこで本物が食べたくなったのだが,アントステラのお店は吉祥寺にしかない。そこでローソンにも同様のクッキーがあると知り,早速購入してみると,「う~ん」という感じであった。こちらは森永製菓ではなくアントステラが作ってはいるのだが...

そして,ついに狂ってしまい,気付いたら生地を練っていた。おいしいチョコチップクッキーが食べたかっただけなのに,自分の作ったものに対しても容赦ない評価を下す僕が25点をつけたクッキーを食べる羽目になった。なお,自分の自炊史上最高記録であるアスパラ天は75点であるから,点数はそこまで悪くない。

新しい趣味が誕生した。作業時間はド素人の僕でも30分くらいなので,非常に良い趣味である。僕のブラウザがこれまでに焼いたクッキーの数84.297decillion枚を超えるクッキーを焼き上げる日もそう遠くないだろう。

軽いラップトップが欲しい

スマートフォンというのはPCの代わりになるからスマートなのに,スマートフォンとラップトップPCを両方(さらにiPadなんかも持っていたりする場合もある)持ち歩いている人を見ると全くスマートではないと思うのである。しかし,モバイルが主流になってきてしまった今,スペックこそPC並の端末がほとんどなのに,モバイルに最適化された結果あまりスマートではなくなったのも原因の1つであろう。

僕はPC世代であり,未だに何かをするときは基本PCを使うという感覚が抜けない。故に最初の頃はどこに行くにもPCを持ち歩いていたのだが,あるとき,行く先々にPCを置いておけば十分であることに気付いて,自宅,研究室,バイト先,実家にそれぞれ1台ずつPCを置いておくことで,重たいPCを持ち歩くのをやめたのである。

ところが,最近になって,PCを置いておけない場所に赴くことが多く,更にPCがあったら楽なのにと思うことが多くなった。そこで,ラップトップの購入を考えているのだが,とにかく条件は軽いことである。1キロ切っていないと話にならないのに,該当機種は本当に少ない。

昨年の最軽量競争で出てきたのが,NEC富士通のPCである。NECは今年モデルチェンジをして秋冬モデルとして新製品が出ている。PC-HZ500LAである。769グラム。富士通の方は,UH75/B3で,748グラム。問題は価格である。NECは出たところなので17万円を超える。富士通は型落ちだが,12万円かかる。

ここでSurface Goが登場する。画面サイズは10インチまで落ちるが,重さはキーボード込みで767グラム。価格は85,000円。スペックは終わっているが,始める気もないので価格と重さのバランスが良い。Officeをなくしてタイプカバーにしてくれればどれだけ良かったか。Office 365の台数制限がなくなった意味が無い。マイクロソフト(とりわけMSKK)は本当にひどい会社だ。前述の日本のメーカーのものは,外部端子などが豊富で便利なのだが,メインで使うような価格帯である。

大穴はレッツノートRZで750グラム。値段はお察しである。

 

さて,先日TOEFL iBTを受けた。理由は先日述べたように,ベトナム人の英語が聞き取れないからである。

英語の勉強というのを6年半ずっとサボってきた。彼方さん(かの有名な「大変日々」というブログを書いていた方である。2010年前後の受験生で知らない人がいればそれはモグリである。受験に関する情報を調べれば,どうやってもあのブログがヒットしてしまったからである)が大学に入ってからも英語をきちんと勉強せよと強く言っていたにもかかわらず,だ。

 アホである。今すぐやれよ。

そうこうしているうちに時は流れ,英語の能力の低さによって支障が出る状態に陥ってしまった。

そこで購入したのがこのシリーズである。

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

 

が,当然やるわけもなく,本棚の肥やしになっている。

8月の国際会議が非常にきつい経験となった。研究発表は問題ないが,酒を飲みながら雑談が全然できないのである。そこで仲良くなったフィンランド人が来週東京にやってくるのだが,意味のある会話が続くか心配である。

そこでついに,強制的に学習する環境下に自らを置くことにした。時期的に来年は忙しくなるから,半年一発勝負である。

現在の英語力を数値化しておくために,TOEFLを受験したのだ。点数は85点。3年前の院試の時の点数が81点だから,大して伸びていない(ここで,試験というものは点数を取るためにはある程度練習が必要であると考える向きもあると思うが,いま僕が欲しいのは点数ではなく英語力であるから,TOEFLのための対策をする意味はない)。

100点を取れるかどうかが成功したかどうかの基準となるだろう。翌年の5月に受験して,何点になるか,楽しみである。

Cookie Clickerに新しい建物が追加された

Cookie Clickerを始めて5年ちょっと。一度データが吹っ飛んだものの,細々と続けている。今回追加されたのはFractal engineである。クッキーのハウスドルフ次元を計算するのである。フラクタル図形といえば,2008年のスーパーサイエンスハイスクール生徒研究発表会で「この図形はR(Rには実数が入っていた)次元で~」などと発表している人たちがいたところ,質疑で「次元が小数ってどういうことなんですか?2次元とか3次元なら分かるんですが」と質問があり,発表者が全く答えられておらず(彼女らは「そういうものだ」と思っていたのではないかと当時の僕は思った)やりとりを司会にとめられるという光景を思い出すのだ。

今月上旬のことだが,家の周りをうろうろしていると,国立公文書館があった。一度行ってみたかったので入ってみると,「平成30年秋の特別展 明治150年記念「躍動する明治-近代日本の幕開け-」」なる企画展をやっていた。

1889年~1932年の東京に大変興味のある僕にピッタリの企画である。明治がどうのこうの言ったってそれは東京の歴史でしかないからである(暴論)。

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国立公文書館所蔵の史料は写真を撮って良いのだが,他から借りてきた史料は撮れない(省庁の史料もダメ)。

用箋が太政官から内閣に変わったり,色々な法律の推敲が見られたり,興味深い展示であった。

我が国の政府は公文書の価値を分かっていないので,今後公文書が残されることも減っていく。こうやってのんきに展示が見られるのも平成の間だけではないだろうか。

 

ベトナム人の英語が聞き取れない

大学教員の国際的人脈は,やってくる留学生によって測れるかもしれない。「よく来る」ところは大体教員同士が繋がっている。

僕のいる研究室は,1年のうち半分以上,1人はベトナム人がいる。誰かが帰ったと思えば,また誰かがやってくる。

僕が研究室に入ってから,これまで(多分)3人のベトナム人と滞在期間が被っている。そして,3人とも何を言っているのかサッパリ分からなかった。

一般に,英語でのコミュニケーションに難がある原因はたくさんある。文法が怪しいというところから始まり,単語が分からない,速くて聞き取れない,頭での処理が追いつかない,発音が悪い,耳が悪い(聴力の問題ではない),等々。

特にベトナム人の英語に対して苦手意識(苦手意識というと悲観的な感じがするが,言語学徒としては面白いので楽しんでいる)を決定的に持ったのは,

  • 1つの単語だけを
  • ゆっくり
  • 何回も

繰り返して発話してもらっても全く聞き取れず,こちらが同じことをしても全く聞き取ってもらえなかったからである。間違いなくこれは日本語とベトナム語の相性が悪い。

「訛っている同士で聞き取れない」と文句を垂れて終わるのではとても高等教育を受けた人間とは言えないので,自分なりに分析をする(プロパーな言語学徒であればたくさん手法を持っているに違いないが僕はそうではないのでそうではなかった)。

 

 

 観察してみると面白い。やはり一定の法則がある。

例えば,expressionという単語は,/espresn/と発音され(ここでのIPAは英語の音素),distributionという単語は/ditribjusn/という感じである。

音が落ちたり他の音になってしまうわけだが,ネイティブや印欧語母語話者にして英語がかなりできる人とは難なくコミュニケーションが取れているのである。

つまり,英語にとってtrivialな脱落であり,変化であるということだ。そして,日本語にとって重大な脱落・変化ということになる。

僕の感覚でしかないが(文献を示せる方はコメント欄に示して欲しい),日本語話者は母音が苦手だ。母音が違っているために話が通じないことはよくあるし,聞き間違えることもある。逆に,子音にとてもこだわりがあると思う。

そこに,英語が音節言語であるのに対し,日本語がモーラ言語であることが加わると,次のようなことが起こっているのではないか(全然違う,これこれこういう学説が主流だ,ということがあれば指摘して欲しい)。

例えば,expressionという単語は3音節である。従って,ex/pres/sionの3パーツの音がそれぞれとりあえず鳴っていれば聞き取ってもらえる。故に,exがeだけになっても別に良い(多分,「エプレスン」でも通じる)。

日本語話者の場合,3重子音・4重子音だと頭で分かっていても無理矢理分けてしまって,e/k/s/p/re/ssio/nという7つのパーツからなる単語であると脳内lexiconに記述されている。故に,kの音が落ちるだけで6パーツの単語になってしまうため,何の単語なのかサッパリ分からない。

この仮説に従えば,聞き取るためには抜け落ちた音を戻してやり,変化した音を戻してやれば聞き取れることになる。

そこで,最近はそのルールを自分の中に構築しようと試みている。

スライドと一緒に喋ってもらうと最高で,どの音がどうなったのかよく分かる。

最初の1文字目の音が落ちることもしばしば。bとpも曖昧で,paperって言ってるらしいのに/beba/にしか聞こえず5回聞き返した。phraseという単語は/bra/である(どちらも1音節なので印欧語族の皆さんには通じている...)。

こうした現象から復元ルールをいくつか作ったが,それだけで劇的に会話が成り立つようになった。とても面白い。

 

さて,

  • 訛っていようが関係なくガンガン話していく皆さん
  • きれいな英語は誰が聞いても聞き取りやすい

という2つの経験的事実によって,僕の中では,「片仮名英語でもなんでもどんどん話していけば良い」という考えと「発音は徹底的にこだわって練習していく」という考えが対立せず共存している。

ドイツ語圏やフランス語圏という,アジアから見ればよっぽど英語圏に近い世界の出身者でも,英語が下手な場合があり,アジア人がびっくりするくらい流暢にしゃべっていることもある。要するに発音は本人の興味と努力によるのである。

この興味というのが問題だ。今でも忘れないのが,中学の時,クラスに「borrowがボロウなのかバロウなのか分からんどっちだ」と発言している人がいて,多分どっちでもないんだろうなと思ったことである。それから6年を経て,発音の教科書を読みながら,/ʌ/, /ɑ/, /æ/を発音してみて,「おーそれっぽい!」と感動を覚えたのであった。