逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

タダより高いものは無い

情報はそれ自体実態の無いものだが、大きな価値を持っている。情報社会などと呼ばれるようになり、益々価値を高めていることだろう。
情報それ自体には実態は無いが、情報の中身には必ず実態が伴わなければならない。
テレビでもインターネットでも、ニュースとなれば、実際にだれがどうしたという実態に基づいて報道されるし、単なる会計データにも、実際の商業活動と現金の移動が記録されている。

しかし、その実態以上に情報が価値を持つようになると、当然商業活動は情報にシフトしてくる。
つまり、実態が無くなってしまうということだ。

やがて情報の中身が情報になってくるだろう。いや、なりつつある。
広告を見れば分かる。情報を売りにしている情報の広告が、情報を売りにしている情報の中に掲載されていることが多くなってきた。実際にループしている例も若干ある。


さて、どんなものでも他人から手に入れるためには対価を支払わねばならない。それは購入である。貨幣経済が世界中で浸透しているので、貨幣を用いて支払うことが多い。

先述の通り情報に大きな価値が認められる今、消費者(情報の消費者)は情報に対価を支払わねばならないはずである。

ところが、そうなっていない場面がある。

地上波民放テレビだ。

民放各社は私企業であり、利潤を追求せねばならないから、当然放送に対して対価を受け取らねばならない。
ところが視聴者はテレビから情報を得たことに対して対価を払っていない。これでは均衡が崩れテレビ局は崩壊する。しかし実際に崩壊していないということは、必ず対価を受け取っているということ。商売が成り立っているわけだ。

スポンサー企業とテレビ局間の売買である。局がコマーシャル枠を売り、企業が買う。ここに対価の支払いが認められる。そして完結する。

面白いことに、ここには視聴者は一切入ってこない。つまり視聴者はテレビ局の経済活動からは完全に外れていることになるが、これでは答えになっていない。企業が視聴者が支払うべき対価を肩代わりしてくれていると考えるのか。そんなバカな話があるか。企業は1円でも支払う金額を少なくしたいのだ。

では、やはり視聴者は何らかの対価を支払っていることになる。どうもそれは現金ではない。

それは、「テレビ局が一方的に流す放送を黙って見る」という行為である。
「あー今からニュース流しますので」『はいはい見てやるよ』という取引である。
すなわち、テレビ局の思想を一方的に受け入れることである。


メディアが媒介する以上、情報は取捨選択される。最終的な情報の選択権は本来消費者にあり、取捨選択された情報をさらに選択することができるはずなのだが、それを放棄することでテレビを見ている。

先日フジテレビの偏向報道に関してデモがあった。某氏のTwitterが事の発端とかいう。
彼らの主張はこうだ。「公共の電波を預かる日本企業として...」「偏向報道をするな...」等々。
どんな主張だろうが関係ない。論点がずれている。そもそも、スポンサーでも無い一般の視聴者に、放送内容に関して口を出す権利も資格も無いのだ。

そこに気付いている人も多く、スポンサーの製品を買わないと言い張る人々もいる。一見的を射ているように見えるが、マスコミの力を知っている彼らにしては、一般人の動きで企業が危機に陥るのはほとんどマスコミの力によるものであったことを忘れている(雪印ミートホープ不二家、吉兆、赤福...)。

(じゃあNHKはどうなのかという人もいるだろう。確かに受信料を支払っているが、あれは法律で義務付けられたものであり対価ではない。「私はNHKでこういうドラマをやりたいです!」と叫んで立候補した議員候補も見たことが無い。)


新聞はどうだ。毎月代金を支払っているが、相変わらず偏った報道も多いぞ!
簡単なことである。新聞には広告が掲載されている。この時点で読み手の支払っている対価が不足していることが露呈した。雑誌もそうだ。1冊数百円でやっていけるのはごく少数だ。

我々がタダメディアに対抗する方法は2つ。
1つは対価を支払う(少なくとも現在スポンサーが支払っている総額を支払う)
もう1つは、彼らとの取引を終了させる(「見ないから番組やらなくていいよ」ってこと)


ただ、テレビに対抗することが今回のテーマではない。



価値のある情報に、きちんと現金を支払うことができるか。
自らの意思で情報を選び、購入していかなければならないのである。



という論を無料のはてなダイアリーに載せるのも滑稽な話である。