逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

東京地方裁判所へ行ってきた

中学生の時に北尾トロの本を読んで以来1回行ってみたかった裁判の傍聴。ついに念願を達成。今日行ってきた。

軽く下調べをしておいた。
まず、霞が関A1出口を出て目の前。次に、入り口で手荷物検査と金属探知機。そして、受付などは無く、開廷表を見て勝手に傍聴席へ行くと。起立、礼をするだとか、メモを持って行くとよいだとか、地下に食堂があるだとか、初心者は新件を選ぶとよいだとか、裁判員裁判はわかりやすいから良いだとか、いろいろ。


9時30分ごろ東京地裁へ入る。見事に金属探知機に引っかかる。

開廷表は紙のファイルに綴じてあった。見ると、殺人、窃盗、覚せい剤、わいせつ、暴行などがならんでいる。
手始めに、中国人被告の覚せい剤の事件の裁判員裁判を傍聴することに。これは新件ではなかったが、裁判員裁判ならそれなりに分かるんじゃないかとテキトーに考えて臨んだ。
裁判は後から調べると3回目の開廷だったようで、検察の論告からスタートした。裁判員裁判だからか、ものすごく丁寧に20分ほどかけて論告を読んでくれたので、事件の内容がよく分かった。
覚せい剤約6キロを密輸、本人は19歳、中国マフィアが絡んでいて、云云。懲役10年罰金500万円を求刑。
弁護人は、被告人は自分でものを決められない精神病?にかかっていたからどうのこうの、本人は深く反省している、父母も面倒を見る云云。公訴事実については争っていない。

弁護人がえらい早口で、淡々とこなしているのかなと一瞬思ったが、検察官に突っ込まれると声が大きくなり反論していたので、そうでもないなと。

裁判員はよくうなずいていた。

判決は明日。裁判員裁判だとすぐに終わるんだなと実感。

傍聴席の一部に、ここには座らないでと表示されている席があったのだが、どうやら被告人の家族?が座っていたようで、閉廷した後泣いて対面していた。柵を挟んで2メートルほどの距離である。


次にわいせつの事件の裁判員裁判を傍聴。こちらは新件だったので、証拠がズラズラと並べられていった。
こちらも被告人は罪を認めているようで、すでに示談なども済ませ、反省している様子。
被害者の処罰感情もほとんど薄くなっているようであった。過去にも被害を受けたことがあったが、通報が遅くて罰せられなかった。今回はそこまででもないのに重罰になるのは不条理だ云云。
ここまで考えている人ってすごいなと思った。部外者だったら分かるんだけど、被害者だからなおさらね。
10時から17時までという長い裁判だったので、昼休憩をはさんでいたが、午後からは別の裁判へ。


最後は暴行事件だった。裁判官1人の狭い法廷。
証人がしっかりと証言していたのだが、検察官・弁護人や裁判官の質問の答えとしては少々ずれていて、判事に突っ込まれたりしていた。
被告人の尋問になると、「なんにも話しません」と一切拒否。弁護人もあたふたしてしまっていた。
弁護人が証拠採用として調書?か何かを申請していたようだが、検察官が理由が無いとして拒否。
弁護人が任意でどうのこうの言うと判事が苦笑しながら「刑訴法の根拠は?」
証人についても理由が無いとして検察官が拒否したところ、弁護人が理由を述べようとしたところ判事に「文書で出してください」と言われてしまう。
こんな感じでさっさと終わってしまった。次回は9月3日だそうで。裁判員裁判とえらい違いであるw



さて、よく考えると裁判所に来ること自体初めてだったわけだが、そんないかつい雰囲気でもなく、そして人の出入りが激しい激しい。中学生(ひょっとしたら小学生かも)や高校生、親子連れ、何で来たのかよく分からないけどそういう人たちがたくさんいて驚いた。夏休みに、女子高生が、制服着て、20人くらいで裁判見に来るなんて。



結構面白く傍聴できたので満足であるが、今回の傍聴を通して思ったこと。


まず、裁判ってのが行われているんだなということ。
実感ないんだ。普段世話にならないから。
毎日のように、人が集まって、裁判が行われている。
でもその裁判があったことをどうやって立証するのだろう。裁判の記録は裁判所が作っている。そんなのありかよって思った。
ありもしない裁判をあったことにできるかもしれないし、その逆だってできそうな気がしちゃう。
だって誰も見てないからね。いや見ているんだけど、傍聴人に口出す権利は無い(あったらごめん)し(公開裁判でも口出せなかったら意味なくね?って思う)、すごく小さな部屋でコソコソッと行われている感じがしたから。

次に、裁判員はやっぱり必要だってこと。
少なくとも日本人は司法権を放置しすぎなんだ。それは前々から僕も思ってることなんだけれど。
自分のことのように感じていない人が多い。全部他人事。
人間正常な状態なら犯罪なんて普通犯さないわけだ。だけど、普通じゃなくなる瞬間がある。その時に思いとどまれるかどうかでしょ。だけど、はたから見ている人は、そういう人たちを正常状態の視点で見るから、特異な人に見えちゃう。別世界だ、って。
あいつは悪いやつ。私は関係ない。果たしてそうか?自分だったら同じ事件を起こさなかったか?そういう想像力。
裁判も他人事。判決には文句を言うことはあっても、最高裁判所裁判官国民審査では全裁判官にOKを出している。
司法の横暴ってありうるわけだ。冤罪を防ぐ最後の砦は司法なわけだ。話聞いてても「〜は明らか」「〜は妥当でない」なんて言葉がポンポン出てきたんだけれど、本当にそうか?なんて思ったりしながら聞いていた。すごく怪しい。大体人間が人間を裁くんだから、欠陥がもっとあると思うんだ。でも放置。
こういう意味で、この裁判員制度は大きな意味がある。市民の目線を司法に反映するという目的はどうでもいい。そんなことよりも、司法を身近に感じないといけない。座っていた6人は裁判を通じて事件の詳細を目の当たりにし、被告や証人を目で見て、そして有罪無罪や量刑を決める。その時に感じたことってのが多分すごく重要になってくるんだろうなあ。
裁判員は60人に1人だったか、結構な確率で当たる?みたいだけれど、そんなのダメ。全員やるのが原則で、2回目の確率が60分の1くらいにした方がいい。仕事が忙しいという人が多いと思うんだけど、それは60人に1人だからであって、全員やるもんだって認識されれば、そりゃしょうがないってなるわけだ。葬式や結婚式と同じ。



いやあ実に有意義だった。
裁判所に入り浸りそうである。
傍聴マニアなんてのになると、どこまで見えてくるんだろうか。