逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

一年の計は一年の刑

帰省という形で元旦を迎えるのはこれで2回目。
勉強などできるはずもないから、随分少ない荷物で帰ってきた。

2013年は一瞬で終わってしまった。それは前稿の通りだ。

本年を迎えるに当たって、良い機会であるし、目標を立てようと考えてみたが、これに恐怖を覚えているのである。

漠然とした、例えばこうこうこういう年にしよう、というのは目標でも何でも無くただの夢(夢は叶わないから夢である)だし、かといって綿密に何月に何をやるか、と書いてしまうと、その通り実行できなかった際にまた精神的につらくなってしまう自分が容易に想像できるので避けたい。

さしあたって優先順位の高い事柄をピックアップしてみたが、それだけで過剰であると自分の限界を知ってしまった気がする私には思われるのである。

無計画に突き進めば(それは実は進んですらいないのだが)、また同じ目に遭う。

どうすればいいんだ。



昨日は高校の恩師の出版記念パーティーに出席してきた。
彼は地歴公民の免許状を持っているが、専攻は哲学であり、高校時代はとりわけ理系クラスの授業では好き勝手倫理を教えていた(理系クラスに倫理という科目はなかった)。
ほとんど誰も聞いていなかった授業だったが、僕は脱線が好きな人間だから、妙に真剣に聞いていた。倫理など入試でも使わないし、それこそ「役立たず」であるはずだったが、今となっては最も僕に影響を及ぼしている。
哲学なんてたいそうなものは僕には分からないし、考える時間も無い。しかし、これは哲学者が独占するものでもない。大学者でなくとも、街に生きる一人一人が哲学しているはずなのだ。その支えになるのが、その人の経験と、その他の文献である。高等学校の倫理という科目は、その出発点を提供してくれる。だから一生ものだ。

大学は知の独占をする場所ではない。知の解放を促す場所だ。
何を研究しても良いが、その結果得られた「知」は全て市民に還元しなければならない。それは「役にたたせる」ということではない。その「知」の結果ではなく、その「知」自体を広く知らしめるのだ。
この努力を怠ってはいけない。怠るものへの援助は一切断ち切るべきであるし、勝手に断ち切られる。

今の中学生が当たり前のように学んでいる内容は、きっと数百年前には大学者たちが懸命に発見し構成していたものに違いない。彼らと彼らの後継者が知の独占をしていたならば、義務教育では四則演算しかできなかっただろう。

今はどうなのだろう。学問がより細かくより深くなっていくなかで、下におろしていく努力が急激に減少している気がしてならない。そんな暇が無いのかもしれない。しかしそれは、結局いつか自分の首を絞めることになる。

人の無知を嘆く前に自ら啓蒙せねばならない。これは自戒でもある。