逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

言語学は科学か,人文学か

僕が言語に興味があると自覚したのは,たぶん大学1年生のときに受けた「言語学とフィールドワーク」(小林正人准教授)を受けようと思った時である。思えば,ずっと英語が好きな科目であったが,高校の英語の授業で先生が脇道に逸れてあれやこれやと豆知識みたいなものを述べると,面白がって聞いていたのだから,言葉そのものに興味があったのだろう。

タイトルに「言語学は科学か,人文学か」などと大げさなものを掲げたが,本稿は結論を出すものではない。言語学を主題にしているが,そもそも僕は言語学を専攻していない。科学か人文学かという問いを立てているけれども,その違いもよく知らない。要するに,思ったことを根拠無く述べるものである。故に,思い違いや誤りがあると思われるが,お気づきの方は遠慮無く出典を示してご指摘頂きたい。勉強させて頂く。

言語学というのが文学部でやる学問で,故に人文学であるという認識をずっと持っていた。学部3年で教養学部後期課程に入ってから,言語学のコースを副専攻として履修した。取ったのは,統語論(森芳樹教授),認知言語学(大堀壽夫教授),英語科教授法(トムガリー教授),英語学(寺澤盾教授),音韻論×2(田中伸一教授)であった。いずれも出来は非常に悪かったが,特に音韻論の授業に惹かれたのを覚えている。

音韻論は,いわば音の文法である。どういった環境で音が変化し,あるいは変化しないのかを解き明かしていく。代表的な例が連濁である。西船橋が「にしぶなばし」にならないのはなぜなのか,ということを記述できるようにしていく。色々な例を挙げながら,ルールができあがっていく過程は,いかにも実験科学の様相であった。言語学は科学なんだなあと感じた。言語科学という言い方もあることを知った。

科学か科学でないかということをきちんと考える羽目になったのは,科学史(岡本拓司教授)の授業を取ったときである。なんとなく分かったような気もするし,分からないままやっているような気もする。科学とは○○であると一応述べることはあるにしても,いくつか反例が出てきてしまうような気がして,何も言わないことにしている。もやもやが残っていたのだろう。科学哲学(信原幸弘教授)の授業も取った。しかしサッパリ,面白いと思えなかったのである。こんなことをしている間に,科学はどんどん進んでいってしまうぞと思ったのが正直なところである。

博士課程に入ってから,人文学って何だ,という疑問を解決していないことに気がついた。対象が自然ではなくて人間というのは,ちょっとどうかなあと思う。学問の世界は方法で分けられているなあと感じることが多いので,人文学の方法があるはずだと思うようになったのである。

これは,社会学というものを漠然と理解する必要性に迫られたのがきっかけである。僕は,勝手なイメージで,社会学というのは社会のなんやかんやを解明する学問だと思っていた。これを実証主義というらしい。そしてこれはもうオワコンで,今は(少なくとも日本では)やっていないらしい。じゃあ社会学って何なんだ?と思ったのだが,社会のなんやかんやを解明するのではなく,解釈を与えるのだということを知った。それならば納得である。解釈なのだから,正しいかどうかなんて分かりはしないわけで,ただ妥当かどうかを多少考えるくらいしかできない。言ってみればお気持ち表明なのだなと理解した。

計算言語学(というよりも,むしろ自然言語処理)をやっていると,コーパス言語学との距離が近い。とはいっても,目的が全く異なるので,交わることはないのだが,先日たまたまコーパス言語学者の方と話す機会があった。そこで教えてもらったのが,corpus-basedとcorpus-drivenという2つの概念である。corpus-basedは,先に「言語の○○はこうである!」と決めて,その証拠をコーパスから探すというアプローチである。corpus-drivenは,コーパスそのものから「言語の○○はこうである」という理論を導くアプローチである。前者はお気持ちである。だから,他の人が研究するのが難しい(提唱した本人と,同じ大学にいる人間にしか分からない)。そして,各自が勝手にやった結果,全く同じことを違う言葉を使ってやっていたとか,同じ所にたどり着いてしまったとか,そういったことが起こるらしい。なるほどこれが人文学かと妙に腑に落ちたものである。

何かを解明しようといった,自然科学の世界から見ると,無意味にみえる場合もあるかもしれない。しかし,上述した,僕の偏見による人文学の定義(?)においてもなお,必要な学問の手法である。例えば,真理を解き明かすのではなく,正義を解き明かすという目的は,人間の社会において重要である。あるいは,妥当なルールを作る必要は,常にある。これは自然科学の手法ではどうしようもない。その時代のその地域の人々が,「まあ妥当である」と思える解釈を生み出し,規範を作らないといけない。さらに,その時代や地域の差異を乗り越えないといけないこともある。こうした要請に応えられる手法は,科学のそれではないと思う。

言語そのものには無意識に出来上がった部分があり,科学の手法でこれを解明することがある程度できるが,同時に人間が相互の関わり合いのなかで意識的に積み上げてきたものでもあり,人文学の手法が何かを明らかにしているのだろう。