逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

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 小学生の時,ときどき外部から人を招いて話を聞くことがあった。その後で必ず「お礼の手紙」を書くことになっていた。この「お礼の手紙」を書くのがとても大変だったことを覚えている。

 B5用紙に何本か引かれた罫線。配られるや,どうやって埋めようかと悩んだものだ。低学年のうちは,何を書いたら良いかも分からず,「ありがとうございました」を3回くらい,点在させて書いていたように思う。高学年になると,話の内容を少し混ぜて,「ためになった」「分かりやすかった」などと評して埋めれば良いことに気づいた。

 今でも多分,何を書こうか何分か考えるだろうが,それでもよほどマシなものを書ける自信がある。年齢と共に書ける文章の量が増えてきたのである。

 では,いったいいつから長文を書けるようになったのか。

 単に長いという意味では,思い出されるのは小学3年生の授業である。たしか,小説だか物語だかを書こうというもので,(他の人と比べて)ものすごく長いものを書いた記憶がある。ただその中身はめちゃくちゃで,その場その場で思いついたことを書き連ねていったのだ。故に一貫性のない物語になっていたはずだ。

 夏休みの宿題の作文も苦労した。読書感想文は書けたものではなかった(本の感想なんてそんなに書けるか,と思っていた)ので,生活作文を書いていたのだが,これが苦しかった。今でこそ,子どもならではの視点で日常を切り取ったらいかに面白いかと思うのだが,子どもにとっては子どもならではの視点が何であるか分かりはしないのである。原稿用紙5枚程度で相当苦労したから,高学年で2000字は厳しいということか。

 中学生になっても長い文章を書く機会は増えなかった。夏休みの宿題にも,生活作文というものはなくて,たしか「原子力の日」記念作文コンクールに出す作文を選択した。これは図書カードがもらえるからである。これも内容はメチャクチャで,600字くらいだったと思う。原子力を持ち上げないといけないのに,書いているうちに「原子力はクリーンなエネルギーだが,事故が怖いので自然エネルギーなどに注力すべきだ」などとなってしまったのを覚えている。なおこれは3・11前のことである。

 高校に入学するときに読書感想文を書かされた。たしか老人と海で書こうとして失敗してカモメのジョナサンで書いたのだったか,その逆だったか。15歳になっても本の感想がろくに書けないという状態だった。生活作文の類でいうと,この頃からブログを書くようになった。だが一貫性のある文章ではなかったように思う。

 スーパーサイエンス部でちょっとした論文(というか実験レポート?)を年に数回書くようになった。これは2カラムで2ページくらいだったように思う。図表があるとはいえ,A4用紙2枚くらいなら論理的な文章を書けるようになったということなのだろうか。

 多分違う。見たこと,やったことを事細かに書くことができるようになっただけである。夏休みの宿題として,家庭科で何らかの課題解決をするレポート課題が出されたのだが,これはやったことをつらつらと書いて何枚かになった記憶がある。また,震災時あったことを非常に細かく書いてブログ記事にしたことも思い出される。

 大学に入ってからは,塾講師のアルバイトで大量の文章を書いた。僕は英語の先生をやっていたが,B5用紙で400ページ・10万字くらいの教科書を毎年書いていた。また,問題集の解説を265ページほど書いた。春と夏には講習があり,このテキストも毎年100ページくらい書いた。会議などで,自分の主張をするための資料を8ページくらい書くようになって(他の人は1ページくらい),15分の枠を大幅にオーバーし50分喋って怒られた。この頃から長すぎるという問題が出てくるようになった。ついに,長い文章を書けるようになったということだろうか。

 テキストの類は,人を説得する部分があり,一貫して論理的な構成が要求される一方,単に事実を書く部分も大量にある。例えば,例文や文法などがそうである。ところが,卒業論文は,全てが結論に向かっている。なんらかの論理的関係を持たない文章は書いてはいけない。そうすると分量がなんとA4用紙8ページになってしまった。まだ長い文章は書けなかったのである。

 大学院に入って,ややこしいことをなるべく分かりやすく構成する機会が増えた。ここでいう分かりやすさというのは,内容を簡単にするということではなく,論理構造が素直であるということである。こうして,30分くらいのプレゼンテーションであれば,良いものが作れるようになってきた。しかし全然長くないのである。

 人の文章や発表を読んだり聞いたりする機会も増えた。ここで,分かりにくい部分を分かりにくいと感じ,どうすれば分かりやすくなるか考えるようになった。受け手の視点というのは常に大事である。

 そして,今度は書く際に,先回りして反論をしておくことが増えた。このブログでも時々やるが,読み手の反論を想定して文章を書くのである。これは論文ではとても大切である。

 学振の申請書も,DC1の時は書くことがなく,枠が埋まらなくて苦労したが,DC2の時は枠が足りなくて苦労した。論文も,修士の終わり頃は埋めるのに苦労していたが,今では削るのに苦労するようになった。削るときも,これを削ると○○が分かりにくくなるだとか,こういう反論を抑えられないとか,そういう心配が出てくる。ということは,全てが説得的な文章になっているということである。

 英語で数千ワードの文章であれば,書けるようになった。だが,本1冊書けと言われたら,書けないような気もする。あんなに長い文章を書いたら,最初と最後で言っていることが変わってしまいそうだ。

 長い文章を書けるようになるために必要なことはなんだろう。いくつかの気づきが必要だけれども,それを得るためには,人を説得させる文章をたくさん書くことと,人に説得させられる文章を読んで反論を考えることが有用なのではないか。人の振り見てといわれるように,他人の文章を添削するのも大変役に立っていると感じる。

 短い文章では端的に結論しか書けない。Twitterでは結論のみによるコミュニケーションがさかんだ。Twitterは議論に向かないといわれて久しいが,今でもしょうもないヨーロッパ応酬が繰り広げられている。これは文章が短いからいけないのである。ただし文章が長いと,読まないで反論するということが行われる。これを防ぐためには,要約しないことが重要である。つまり,タイトルや見出しなどはつけてはいけないのである。