逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

インターンと就活の記録

 今や情報系の学生は学部生の頃からあっちこっちインターンをしまくって,そのまま就職しちゃうようなのですごいなあと思いつつ,自分の場合はどうであったか記しておきたいと思う。

注意書き

 この文章は就職活動等の経験を共有するためのものであり,現実味を出すために特定の企業に関する情報が載っている。言及されたあるいは言及されなかった企業の評価を上げ,または下げる意図はない。また,単なる一例を挙げるにとどまるため,この文章をもとに,特定の企業の活動について何らかの判断を行うことはできない。

インターンシップの記録

文法的

国際会議で話す→インターンはやっているかと聞くとやっていないと言われる→インターンの募集が出る→referralを依頼する→いいけど,拠点が違うから意味ないよと言われる→レジュメを送る→返事なし

密林

求人を眺めていて,間違えてapplyボタンを押す→フォームが表示されたので何も入力せずにタブを閉じる→電話面接の日程を決めるメールが来る→電話がかかってくる(英語)→お祈りメールが来る

社長がタミル語

応募する→お祈りメールが来る

拠点を変えて応募する→電話がかかってくる→お祈りメールが来る

4689

LinkedInでインターン受けませんかと連絡が来る→応募する→お祈りメールが来る

4329

LinkedInでインターン受けませんかと連絡が来る→話を聞きに行く→コーディング試験を受ける→面接を受ける→お祈りメールが来る

4751

応募する→面接を受ける→お祈りメールが来る

小括

結局インターンにはいけなかったw

就職活動の記録

6701

お話しませんかと連絡が来る→行く→この後選考に進めるかどうか連絡しますと言われる→現在に至る

9432

エントリーする→お祈りメールが来る

小括

エントリーシートが通った会社なし・・・

番外編

国際商業機械

ACLに参加するならそこでカジュアルに話しませんか?とメールが来る→ACLでカジュアルに話す→現在に至る

6501

LinkedInでカジュアルに話しませんかと連絡が来る→電話でカジュアルに話す→転職の際はご連絡下さいと言われる→現在に至る

PACT

LinkedInでカジュアルに話しませんかと連絡が来る→電話でカジュアルに話す→メールを送ってくれと言われる→現在に至る

先進半導体素材

LinkedInで卒業後のキャリアについて話そうと連絡が来る→電話で話す→また連絡すると言われる→これは勘違いで,こっちからメールするように言われたのかも(英語の聞き取りミス)→現在に至る

小括

色々な人と話せて楽しかった。

終わりに

 こんなんでもなんとか生きていけているのでインターンや就活をする必要はなかった。

お金の話:学部・修士・博士でいくらかかったか,どうお金を用意したか

 どうして東京に行きたかったかといえば,それは地元にはないものがたくさんあると思ったからである。それを体験できなければ上京する意味がないので,十分な現金を用意することが受験が終わってからの課題であった。

 JASSOの奨学金は第一種は無金利,第二種もほぼ無金利と見なせるので,なるべくたくさん借りることにした。学部の時は51,000円+80,000円,修士の時は88,000円+100,000円,博士の時は122,000円+80,000円。学部では4年間借りた。修士は1年間,博士も1年間だけ借りた。貸与総額は10,968,000円(なお機関保証なので使えた額はこれより数パーセント小さい)。

 大学の入学金と修士の入学金は親に出してもらった(それぞれ282,000円)。授業料は,学部・修士は全額免除,博士は1年半全額免除,1年半半額免除で,9年間で支払った額は390,600円だった。

 アルバイトは,学部1年~修士2年までやった。学部1年のときは単発の採点バイトをやる程度だったので,大した額にならなかったが,3年からは年に100~150万くらい稼いだ(だから税金も払ったし国保だった)。

 修士1年のときは,奨学金を借りずにアルバイトだけで生活をしてみた。週4でアルバイトし,月20万ちょっとの収入だった。

 修士1年のアルバイト漬けの日々が地獄だったので,修士2年からはバイトを減らして奨学金を借り,博士課程に入ってからはアルバイトは辞めた。博士1年のときはRAも目一杯の枠を設定してもらった。

 博士2年からは学振とRAで賄った。

 こうして手元に潤沢な現金を用意したおかげで,少なくとも書籍については購入を躊躇したことはなかった。PCも必要なときに買えたし,英語をなんとかしたくてNCCに入ったときも学費よりスケジュールの調整に苦労した。

 問題は,その大半が借金であるということだ。これから返済が始まる。月額45,000円程度である。結構な額であり,果たして奨学金奨学金たり得ているのか疑問だが,制度が変わるのを待っていても仕方がないので,東京を離れることでこれを解決する。要するに家賃の差分を上手く使う(住宅補助なども上手く使う(手当は課税だから効果は3割減))。

 ちなみに有利子奨学金金利は,利率固定で2012年時点では0.16%,2017年時点では0.27%だ。住宅ローンより低い(無視できるほどではなかったなw)。利率見直しの方は0.01%だ(楽天銀行普通預金金利が0.01%なので無視できるレベル)。それから,博士1年のときの第一種は成績優秀で返還免除になった。1,464,000円免除なので焼け石に水とまでは言えないがありがたみは薄い。学部のも免除してくれよ・・・

卒業式に一度も出られず

 学部,修士,博士と3回機会があったのに,卒業式に出ることはかなわなかった。というのは,学部の時に既に博士に行くことを決めており,卒業式は最後の1回だけ出れば良いと考えていたからである。今年の卒業式は代表者のみが参加し,それ以外はインターネットで配信を見る形式であった。そもそも卒業式などというのは幼稚園のときからそうだが,学校長来賓その他の話を聞いて終わりなのである。この話自体は無意味で,ただ式典という形式そのものに趣を見出すことに意義がある。従ってオンラインではほとんど目的を達成できないのである(平たくいえば,安田講堂でなければ卒業式を執行する意味がない)。

 さて,無事に博士号を手に入れることができた。感慨はない。やはりピークは本審査のときではないか。博士号を手に入れるステップには「おめでとうポイント」がいくつもある。

  1. 博士論文の提出時
  2. 博士論文の審査合格時
  3. 博士論文最終提出時
  4. 博士の学位授与時

 理工系の課程博士では,提出してしまえばもう学位は取れるだろうという推定が働くので,1の時点でそれなりにめでたい。とはいえ,審査の結果によっては半年くらい授与が延期になることもあるので,2の時点で学位授与の時期が確定するからこちらの方がめでたい。そうはいっても最終的に博士論文を図書館に提出しそびれれば要件を満たさないから学位はもらえない。最終提出を以て学位を受け取る要件が揃ったと考えられるのでめでたい。4は実際に学位が授与されるのでめでたい。

 しかし,やはり2が決定的であるから,最もめでたい。それに,新生活の準備などで修了などしている場合ではないという焦りがあるから,感慨に浸る時間もない。学位記も東大は学部・修士と同じデザインなのでなんとも新鮮味がない。それに比べると製本した博士論文は重厚感があってとても良い。本郷キャンパスは写真撮影の大群がひしめいていたが,この盛り上がりはアカデミックガウンを着て写真を撮る唯一の機会であることによるものにすぎない。

 ところで,このブログは10年前東大・東工大に落ちて浪人が決まったことをきっかけに始めた。東大にいる間書き続けてきたが,これで東大を離れるので,このブログも終わりである。この後月末にかけて,インターンシップや就職活動について振り返りの記事を書く予定である。新しいブログは既に始めているので,読んで下さる方は引き続き宜しくお願いしたい。

東日本大震災から10年

 東日本大震災から10年。もう10年も経ったのか,という感じである。大変なことだったよなと当時を思い返す。あの津波の映像は本当に衝撃的で吐き気すら催したものだったなと思い出す。

 ところが,それ以上何も出てこないのである。もっと感慨があるかと思っていたが,無いのである。それもそう,当日はたまたま都内にいて帰宅困難にはなったけれど,被災は一切していないのだから。あの時点では友人知人親戚遠戚どこをたどっても東北にたどり着かなかった。

 色々なエピソードを新聞やテレビで見かけるけれど,悲しくてすぐに見るのをやめてしまう。自分だったらたまらないだろうな。

 もう10年経ったらどうなるだろう。阪神淡路大震災と同じような遠さだな。年齢も重ねて,親も歳をとって・・・10年かあ・・・(全然関係ないところに

 

 

東大に落ちて10年

 気恥ずかしさや劣等感が薄らいだという事情がある。加えて,10年経ったけれど僕の中ではまだ連続性があって(だってまだ同じ学校にいるからね),就職したらこれが失われて,感覚や記憶が消えていくだろうと思われる(同期で学部卒で就職した会社人5年目の人間はもう覚えていないだろう)から,書くなら今が最後の機会なのだ。これまで東大に落ちたときの気持ちをどこにも記してこなかった。当時すでにTwitterに東大受クラスタなるものがあって,模試もみな成績が良くて,半分くらいは実際に合格していて,順当に落ちた感じがしていた僕にとってはとてもそのことを述べられなかったのである。このブログもまだなかったし,高校の時に書いていたものは卒業と共に終わってしまったので,他に媒体もなかったのである。

 そもそも東大に受かりそうな感じはずっとしていなかったのだ。なんとなく浮ついた,非現実のような感じだった。模試だって良い結果を出したことはないし,客観的に見て東大は無理だよなというところだった。勉強だって全然できていなくて,英語は得意科目だったけれど,数学や理科は全然追いついておらず,過去問もたくさんこなしたけれど,解けてはおらずただ解答を写経しただけだったからだ。

 発表の日は,午前中はTwilでTwitterを見ていた。結果が出始めたころ,インターネットで番号を見た。無かった。まあ無いよなと思った。親は落ち込んでいた(たぶんかわいそうに思ったのだろう)。東工大後期の対策は多少していたけれど,これも英語は良いのだが数学がダメで,受からないだろうなという感じの方が強かった。

 あの日はもう,翌日には東工大後期を受けに東京に行かなければならなかったから,切符を取ったりして慌ただしかった。翌日も,どうせ受からないだろうという疑いに,東日本大震災が加わって,なんとなく浮ついた,大変なことになったなという気持ちだけが心を満たしていた。自分の身に起こったことをしみじみと感じたのは,まさにこのブログを始めた頃だった。

 

 東京のアパートを引き払うので,荷造りをしていた。例のレタックスが出てきた。捨てた。

 

アクアパッツァ

 昨日*1,魚を焼いていたら,火災報知器が鳴った。「ピューイ,火事です火事です,ピューイ,火事です火事です,ピューイ,火事ですか痔です」

 東京に来てまもないころ(2012年6月),突然火災報知器が鳴ったことがあって,その時に調べたので仕組みは分かっていた。空気の透過率が下がると火事であると判断するのである。魚を焼くとその脂によって煙がもくもく出るが,これがいけなかった。

 それにしても,「火事です火事です」とはずいぶん思い切った断定である。仕組み上,空気が透明でなくなってきたことが分かるだけである。従って,「ピューイ,空気の透明度が下がりました空気の透明度が下がりました」と言うのが正しい。

 しかしそれではあまりにも分かりにくく,火事の場合に逃げ遅れる可能性がある。問題点は,火事⇒煙⇒空気の透過率が低下という論理が成り立っていても,空気の透過率が低下⇒火事という論理が成り立っていないところにある。そこで,「ピューイ,火事の場合と同じ状態です火事の場合と同じ状態です」と言うと正確だ。

 ところで,空気が透明でない場合に,魚を焼いたことと火事であることとでどちらが原因の場合が大きいだろうか。

 僕は10回に1回くらい魚を焼いているので,魚を焼く確率は0.1である。また,火事になる確率は,全国統計から5000分の1であることが分かっている。また,魚も焼いていなければ火事でもないときに空気が濁る確率は0である。火事の時は大抵の場合空気がよどむので,0.9の確率で透過率が下がる。魚を焼いても煙が出ないことは多いので,透過率が下がる確率は0.1である。魚を焼いた上に火事になった場合に空気が透過しなくなる確率は0.91である。

P(魚を焼いてい=る) P(魚を焼いてい=ない)
0.1 0.9

 

P(火事=だ) P(火事=ではない)
0.0002 0.9998

 

魚を焼いてい 火事 P(空気が透過=する) P(空気が透過=しない)
ない ではない 0 1
ない 0.9 0.1
ではない 0.1 0.9
0.91 0.09

 

 ここから,4通りの確率を計算する。

P(魚を焼いてい=る, 火事=だ, 空気が透過=しない)=0.0000182

P(魚を焼いてい=る, 火事=ではない, 空気が透過=しない)=0.009998

P(魚を焼いてい=ない, 火事=だ, 空気が透過=しない)=0.000162

P(魚を焼いてい=ない, 火事=ではない, 空気が透過=しない)=0

 以上より,空気が透過しなかったとき=火災報知器が鳴ったとき,魚を焼いているが火事ではない可能性が最も高いことが分かる。

 では確率が低いから,火災報知器を魚焼き検知器に変えるべきなのか。リスクの見積もりは,その発生頻度だけでなく,影響度も評価して行わなければならない。火事は大損害をもたらすので,確率が低くても気をつけなければならないのである。

 魚は美味しいのでどんどん焼いた方が良い。

*1:昨日ではない。