逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

逐語訳からの脱却

例によって(実は例によっていない)英作文の授業。

「中高年が胸に抱くひそかな希望をちらほら耳にする」

これを日本語の呪縛から逃れられずに逐語訳しようとすると、I hear middle-aged people's desire とかになってしまう。
desireもhopeもhearすることはできない。

さすがにネットで検索かけてみると、こんな風になっている解答は見当たらなかったけど。


「胸に抱くひそかな希望」とは?

胸に抱かないひそかな希望はあるのだろうか。胸に抱くひそかでない希望はあるのだろうか。無い。胸に抱くとひそかは同義。
で、関係詞で修飾しようとする。 desires which they have...
ところがこれ、限定する必要が無いので修飾しない方が良いらしい。胸に抱いていないdesireなんて存在しないし。



「身体の記憶には、英単語の暗記と違い、思った以上の持続力があるらしい。」

これは僕も見抜くことができた。「身体の記憶」と「英単語の暗記」は比較できない。身体は主語だけど英単語は目的語だ。「身体の記憶」と「頭の記憶」を比較しないといけない。
そして「英単語」を頭の記憶の目的語にするのもどうかと思う。もっと一般化しないと文脈に合わない。such asで適当に書いておく。



よく思考と言語に関する文章を現代文で読まされるけれど、複数の言語が話せる人は、その言語を使っているときはその言語の思考になっているのだろうか。
英語の思考で日本語を使ったら頭おかしくなりそうだし、日本語の思考で英語を使ったら破綻しそう。パッコーン!

ちっとも英語が使えるようにならない理由の一つとして、英語的思考能力の欠如が挙げられるのかもしれないと思った。

なんだか英語ってプログラミング言語みたいに厳密な感じが。

日本語のパラダイムはゆる〜い型付け、英語は強烈な静的型付け。
日本語にはデータ型なんてない。文字と数字を比較することもできるし、オブジェクトと配列を足し算することもできる。



あー