逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

映画に何を求めるか

アメリカン・エキスプレスが映画館で累計3000円の決済をすると500円キャッシュバックしてくれるというので,久しぶりに映画を見に行った(1000円の日に行けば3本見られるのだけれど)。見たのは「万引き家族」である。

毎週映画を見ている人がいる一方で,僕みたいな年に0回〜2,3回しか見ない人間もいるわけだが,後者が映画の感想を語ることができるのか怪しいと思いつつも,何を思ったか表現するのは全くの自由であるから,珍しくやってみる。


見終わった後の感想は,「あーだめだ」である。



以上,感想である。やはり失敗した。感想を述べることは僕には早かった。5文字書くのが精一杯である。


ここからは,なぜ,なんとか映画祭で何某ほげほげを獲ったこの映画に対して,「あーだめだ」という感想を抱くことになったのかを考えたい。
巷の評価とずれているので,評価軸が全然違っているのであることは予想がつく。

ストーリーに不自然な点はあったか?ない。理解できない飛躍があったか?ない。
演技がまずかったか?いいえ。役者はかなり良かった。

答えは,「切り取ったもの」である。

わざわざ映画にする意味ある?と思ってしまったのだ。映画を見ながら,「で,何?」と思ってしまったのだ。
あまりにも当たり前でありふれたテーマであり,身近であり,非日常感がないのは当然としても,なにか隠されていた現実をあぶり出した感じもない。

どこかで聞いたことあるような話だったわけだ。

howに文句はないが,whatにやられてしまったのである。



ここから分かることは,僕は(この手の)映画に対してはwhatをかなり強く求める傾向にあるということだ。
確かにそうなのである。これまでにも,良いなと思った映画が酷評されていたことがあるが,その評価はhowが稚拙であるという一点であった。

僕は常に新しいことに出会っていたいという気持ちが強いようだ。そしてそれは,完成品ではなくてよく,種さえあれば後は自分で勝手に育てていくというつもりのようである。
だから,手段が稚拙であっても一向に構わなくて,自分で発展させられる。他人の作った作品を作品に完結させることなく,自分に取り込んでいってしまう。

故に,今回は僕の中に取り込まれるべきものが一つもなかったために,冒頭の感想が出てきたのである。


たぶん,映画に向いていない。古典を読んだ方が良いだろう。大方の古典は新しいに決まっているからである。


さて,そうなると残り1,500円はポップコーンにでも使うほかないかな...