逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

応急救護

3日間、1〜5限を使ってディスカッションをするという授業を受けている。今日が中日だ。

議論は好き。特に物事を相対的に、これでもかというくらい相対的に捉えようとするようになってからは、結論など出せないし出そうともしないんだけれど、とくに少人数で――2人でも十分だ――やるのが好き。

自分のよく知っていることや特に最近気にかけていることであれば止まらずに話せる。しかし、新しい世界をのぞき込みながらのそれは、結構心的負担が大きい。

ディスカッションなので、何でも思いついたことを言えば良いのだが、それを邪魔する働きがある。
いま、「A」ということを思いついたとして、発言するための内的手続をしている間に「Aへの反例B」が見つかってしまう。
この繰り返しで、機を逸する。手続は取り下げられる。

さらに悪いことに、そこで行き詰まる。本当はAの時点で発言しても良いのかもしれない。「B」が他人によって出されるかもしれないが、「A」「B」を上回る自分では出せなかった「C」が出てくる可能性がある。というより、「C」を出すために他人と議論しているのだった。

しかし自分でも違うと分かってしまったことを言うのは大変なことである。どうしたものか。

新しい世界にはぼくは新参者だが程度の差はあれ経験者がいくらもいる。
彼らは新しい突破口を見つけるために新参者の意見を欲しがるはずだが、僕からしてみれば、それを了解した上でも、すでに決着済の議論を提起しかねない恐怖がある。殆どの場合杞憂であった。自分の中だけで満足をするのである。


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自動車教習所で応急救護の実習を受けたときに、周りの高校生か大学生はダルそうだったが、僕はこういう訓練を真剣に受けておくことはとても余裕のあることで気分が良いなと思った。
どうして余裕を覚えるかというと、おそらくその場にいた者が全員感じていたように、使う場面を想定していないからである。平たく言うと、自分とは関係ないのである。
関係のない事柄に意識を向けられるのは間違いなく余裕そのものである。余裕を感じるとき人は優越感に似たものを覚えるだろう。少なくとも僕はそうである。余裕とか、無駄とか、非効率性とか、そういったものに人間らしさと価値を感じるのである。

さて、これだけでは屁理屈のように思えて仕方が無かった。積極的理由というよりも、態度価値的な、やらなきゃいけない事に対する受け手の認識の変化にすぎないとここ数ヶ月思えていたのだ。

次のような序列があることを今日見つけた。

使わない>使える>使えない

応急救護の知識は、使えないよりも使える方が良いのは当たり前である。しかし、使えることよりも使わないことの方が重要であることもまた論を待たない。
彼らの真剣になれない言い訳は、「絶対つかわねーし」である。
これを否定することは難しくないが、否定している本人もまた違和感を覚えてしまう。確率の問題なので使わないと断言はできないが、使わないよな、と(そもそもこの程度の真剣さでは忘れる)。

ところが、「使わないから」というのは理由になっていないのである。これに気づくのに時間がかかった。

なぜなら、最上位概念に「使わない」が存在するからである。すなわち、「使わない」からこそ応急救護実習を頑張るのである。

ここでの選択肢は、「使わない」と「使えない」の2つになる。この差は2段階である。極めて大きい。


避難訓練は、避難しないために行うのである。
消化器は消火しないために設置するのである。
保険は保険金を貰わないために掛けるのである。

「使わないための努力」ができるようになりたいものである。




この論は、軍拡にも一見適用できる。
原子爆弾は、使わないために保有する。
ところが、
使わない>使える>使えない
という序列は決して自明ではない。
使えない>使わない>使える>使う
という順序が自然だろう。
そうすると、「使えない」ための保有はできない。「他国が使えないように自国が持つ」というのはこの議論では使えないための保有にはならない。

では、集団的自衛権はどうだろうか。
使えない>使わない だろうか。
使わない>使えない だろうか。

拳銃はどうだろうか。
原子爆弾と同じ直接的な武器だが、アメリカなどでは事情が異なるだろう。
使わないにこしたことはないが、使えないと困るという文脈は容易に想像できる。でもこれは原子爆弾にも適用できると思う人がいてもおかしくはない。




久しぶりに思索をする時間が取れた。大変嬉しいことである。


ちなみに、以上の議論は上述の授業とは全く関係がない。