逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

丸い

丸くなった。

言いたいことは山ほどあるけれど、論調が激しくなればなるほど実際には何も変わらないことへの虚無感と、疲労感にやられてしまい、もはや考えることまで放棄する近頃である。

しかしそれでも、言い続けていかなければならないのかもしれない。

諸問題は極めて複雑である。複雑さを過剰に(過剰ではないかもしれない)意識したがために、自分の意見が一面的、二面的、高々有限面的なものにすぎないかもしれないという恐れが筆を止める(筆ではなくキーボードである)。

一面的なものの見方は、質される可能性を持っている。科学は反証可能性を持っている。

さて、言論は激しくなければならない。全面的な1つの言説より、100個の一面的な言説が必要なのである。なぜならば全面的な言説が存在しにくいからである。

街を歩いていて、人と話しながらであっても、どうも気になるものを見つけてしまうので会話が途切れては戻る。注意力はまだ健在のようである。

確率(古典的な確率)で物を語る場面は少なくない。とりわけ日常的な事柄における場合、昔から嫌気がさしていたものである。

1000人に1人が発症する病気だとか、10兆人に1人の精度のDNA鑑定だとか、この類の表現である。


確率は便利だが、単発の意思決定には全く無用である。


いまオータムジャンボ宝くじが発売されている。

1ユニットにつき、

金額 本数
330000000 1
30000000 2
200000 99
10000000 10
1000000 100
50000 2000
10000 40000
300 1000000

なので、1枚当たりの当籤金期待値は140.98円である。発売額は、1枚当たり300円である。

300円で買って140.98円の回収しか見込めない。誰がこんなもの買うだろうか?


多くの人が買っているではないか。サマージャンボは追加発行までなされた。


1000万枚買わないと、確率を計算する意味が無い。
nが十分に大きくなければ確率を計算する意味が無いことは、誰もが分かっていることなのである。

逆に言えば、宝くじなんかは買えば買うほど理論的な確率に近づいていくのだから、損をする。
1枚だけ買って3億3千万円当てるのが一番良い。



てきとうなものだ。


論理学を何にでもあてはめたがる人がいる。

そんなものが通用する世界は、極めて狭い世界である。

例えば、ある命題が真でも対偶が偽になる世界の方が広い。

数学の世界は時間を意識しないで良い(と思うが、そうではない場合もあるかもしれない、詳しくない)。

「AならばB」と「BでないならばAでない」は常に同時に存在することになるが、日常生活では、時間がかかってしまう。
「AならばB」から、「BでないならばAでない」を用意している間に、「AならばB」がもはや意味を持たなくなってしまう。

式変形は通常時間を一切消費しないで行われるが、日常生活の中では時間を消費してしまうので、等号で結んでいたつもりが、左辺と右辺では値が異なってしまうことすらある。

4+6=10などという等式はまるで役にたたない。
4+6=11の方が良いのである。左から順に書いている間に、値が増えてくれないと困るのである。数学的には意味不明である。

功利主義的な側面が強い。結果がよりよければ妥当なのであって、都合の悪い結果は偽である。

時間という要素は極めて重大で、1秒のずれによって不渡りを起こし、取引停止になり売掛金での取引ができなくなって倒産するも、債権はきちんと回収でき、結局黒字であるということは時々ある。100円で仕入れて200円で売り、手許に100円の利益が残ったのだが、お金がなくて倒産である。200-100<0である。

減価償却も時間の要素をふんだんに盛り込んでいる。手許に現金があるのに赤字である。



こんなことを深夜に1時間もかけて考え続けていると、何が何だか自分でも分からなくなってくる。