所属に対する愛と誇り
自分の所属している、または所属していた学校や会社や団体などが好きだったり、これらに対して誇りを持つことはよくあることだと思う。
一方で、そういう人々を見て否定的な考えを持つ人もいる。
僕は自分の出た中学や高校が好きだし、今でも誇っているし、上手に美化されている。
逆に、どうでもいいと思っている人も多い。学校なんてどこでも一緒だと。
数日前に、所属に頼るのではなく、自分の主体性を持てという意見を目にした。大切なのは自分が何をやっているのか、やってきたのかであって、どこに所属していようが関係ないし、むしろ所属に頼るのは自分がない証拠だとか。
なるほど。
駒場図書館の周辺を歩きながらちょっと考えた。
僕は今現在東京大学に対して何の誇りも持っていないし、好きでも嫌いでもない。
この差は何だろう?
大学の規模が大きいからか?
しかしそれは直接の原因じゃないな。
そして気づいた。
中学や高校の時は、学校に対して積極的に参加していた。参加というのは、その所属に対して自分が何らかの変化を与えることである。僕のいた中学や高校には、僕がいた形跡が今でも残っているはずだし、無かったとしても、残っていたという記録は確実に残っている。
部活でもそうだ。自分がいた形跡がある。自分がその所属に所属していたというよりも、自分がその所属自体の一部または全部になっていたということである。
なんだ、結局自己愛か。
僕は今東大に対して何か投げかけているわけではない。ただキャンパスにいるだけ。なるほど。
所属を手段として利用しようとする間は、その所属はいつまでたっても自分にはならないから、特に特別な感情を抱くことは無いのであろう。自分と切り離していることになる。
図書館に着いちゃったし、この辺で終わろうと思ったら、ふと思い立ったのがこれを愛国心にも適用してみること。
日本が好きってのは、日本社会を自分が構成していることへの意識的または無意識的な気づき(無意識的な気づきってのは変な言い回しか)なのでは。
地域社会でも、また地球全体でも、そうなんだろうな。特に後者の場合、漠然としたイメージしか持てないとなると、グローバルな問題から目をそらすことになりかねない。だって自分は関係ないから。いつまでもお客様、guestのままだから。
何か投げかけなくちゃ。
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ここのところ更新をサボっていたのは、意識が低くなりすぎて、また忙しすぎて書くことがなかったからである。
ダメだね。考える時間を持ちたいね。