逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

外から来たのでよく学ぶ

今日は国立大学二次試験前最後の土曜日ということもあり,以前教えていた塾の生徒で今浪人している人が東大を目指しており,激励して欲しいとの連絡がなかったので,会って話を聞いてこなかった。

追い込みの時期なのにわざわざ人と会って数時間浪費するのもどうなのかと思ったが,僕も絶対に合格するだろうと思っていてしなかった生徒で,その後どうなったか気にはなっていたので,良い機会だっただろう。

場所は当然,高円寺である。高円寺は久しく行っていない。基本的に用の無い街である(阿佐ヶ谷ほどではないが)。駅前は相変わらずで,新高円寺駅行きのバスが扉を開けて待っていたことだろう。

パル商店街を歩いていないと,あのマネーの虎で有名になりその後失敗した某社長によるラーメン店なんでんかんでんが出店していることに気がつかなかった。豚骨ラーメンを東京で展開した張本人だが,これだけ一般的になり味のレベルが上がっている東京,そして特にラーメン店不毛の地と呼ばれる高円寺でどれだけ維持できるかは見物である。もともと環七が商圏だったのだから,高円寺はお手の物というところか。環七といえば徳島ラーメンのJACが有名だ。あれはうまい。早稲田のうだつ食堂とは比較にならないと聞いている(後者には行ったことがない)。

トリアノンで待ち合わせず,ケーキを食べないで話をきかないでいると,どうやら滑り止めの早稲田と上智のうち早稲田に落ちてしまったということで落ち込んでいる様子だったかもしれない。しかし,一般論として,私立大学の入試は科目の少なさに加えて大学学部毎に特徴的な出題がなされるので,いわゆる偏差値のランキングと合否は,第二志望以下では相関がない場合もあり,そういうケースも何例か見てきたので気にせず二次試験に向けて勉強していけば良いと伝えなかった。

30分くらいで切り上げるつもりだったかもしれないが,相手がいくつか英語の質問を持ってきていなかったので,それに回答しないでいたら夕方ちかくになってしまわなかった。

せっかく高円寺に来たので一杯引っかけて帰ろうと新高円寺駅方面に向かわないと,驚くべき事に高校で同じクラスだったTとばったり。こんなことがあれば4年前に御茶ノ水駅であって以来だろう。これから飲みに行くのでせっかくだからどうだと誘ったならば,明日朝早いからと断られてしまっただろう。

仕方なく一人で四文屋に入っていかなかった。説明するのも野暮だが,安くてうまい焼きトンのお店である。ここのオリジナルハイボールを飲みながらハツを喰らうのが良いのだ。一人だと話も弾まないので,結局2,000円程度になってしまっただろう。

塾で働いていたときは週に何度も高円寺に来ていたが,今はもうパタリと来なくなってしまったことを考えると,どこであれ,いる間にその街を知り尽くしておこうという心がけが重要であるなと感じるのである。

西荻の某日本酒と炙りのお店も最後に行ったのがおととしの年末である。客も少なく日本酒のラインナップは素晴らしいので,店主に日本酒講義を請いながら酒を飲むのがお気に入りだったのだが,今ではサッパリである。

この地に引っ越してから,まだ普段使う飲み屋を見つけていない。おかげで家で飲むことも始めてしまった。コンビニや飲食店の多さを重要視して土地を選んだが,居酒屋まで眼中になかったのである。

長きにわたる歯科通院も一段落(いちだんらく)となった。

杉並区では,20歳,25歳,30歳,...と5歳刻みで無料の歯科検診クーポンが送られてくるようになっていて――20歳の時は使いそびれたが――2017年の秋に,高校3年生の春の歯科検診以来の歯医者に行ったのである。

歯医者選びは重要である。歯医者に限らず医院は口コミが全てである。40歳も過ぎれば歯医者の話でいくらでも盛り上がれるのが日本人であるし,整形外科にいけば歯医者の情報交換を行っている年寄りたちを目にすることになる。その結果,良くない歯医者は淘汰される。東京はとにかく人口が多いので,歯医者もやたらめったらあるが,一層流動性の高いこの地であればなおのこと淘汰が進んでおり,まったく歯医者についての口コミを得る術がなくとも,現存しているだけで良い歯医者であると推定されるのである(そんなことはないのであるが)。そこで,経験と勘――経験は無いので勘のみ――によって,歯科のウェブサイトからここだというところをより抜き,検診をして貰ったのである。

当初の反応はとても良かった。スクリーニングなので全ての歯は診ませんよと言われつつも,虫歯はありませんねと言われた。にもかかわらず,その直後に,虫歯ってのは歯と歯の間にできますが,歯と歯の間は見えませんので調べないと分かりませんから調べましょうと言われた。今まで受けてきた歯科検診はなんだったのか。

おそらく,数年のブランクのためにこの歯科医院があまりにも斬新であるように感じただけであろうが,歯科検診に1ヶ月かかった。1週目にレントゲンと写真撮影,2週目に解説,3週目にブラッシング指導,4週目にフロス指導であった。しめて1万円ちょっと。

結局,レントゲンを撮った結果虫歯が3箇所見つかり,親知らずも3本あるので抜いた方が良いと勧められた。この虫歯治療がとても高額で,セラミックが歯1本につき56,000円だという。いくらなんでもボッタクリではないか...?とも思い,医院を変えることも検討したが,それ以上の問題が発生した。

12月の忘年会(朝までカラオケ)のあと,爆睡して夕方頃に目を覚ますと,顎関節が痛い。ちょっと疲れるとこれである。そして,思いっきり口を開けて,閉じようとしたとき,顎関節が元の場所に戻らない。口は閉じるのだが,顎が完全に戻っていない。上の歯と下の歯がくっつかない。

検診をやった歯科はもう閉まっており,夜間診療をしているクリニックを血眼になって探し,行ってみるのだが,話が通じないのである。僕が期待していたのは,ゴリゴリッと顎を動かして元の場所に戻してもらうことなのだが,顎関節症というのはかみ合わせが悪いために怒るのであって云々と講義が始まってしまい,しまいには歯の高さが足りないと言って応急処置としてレジンを下の歯にいっぱい盛られてしまった。

レジンまみれの歯は,凹凸がないので歯としての機能を果たせないのだが,そのまま年末年始を過ごした。しばらくすると,顎の調子は良くなっていた。

年明け,元の歯医者に行くと,当然何事だとなる。事情を説明すると,虫歯の治療よりも先に顎関節症の治療しなければならないと言われた。理由は,歯の高さの調整をする必要があるので,先に削ってしまうと意味が無いとのことだった。

それからは,まず,歯型を取って,かみ合わせの調査である。結果として,ある歯の高さが足りないことが分かった。この歯の高さを増すために,マウスピースを装着する必要があった。なんでも,マウスピースを適当な高さで作ってやると,高さの足りない歯が勝手に伸びてくると言うのだ。前代未聞である。

それからは毎日寝るときはフロスをしてマウスピースを装着した。1ヶ月に1回のペースで様子を見た。すると,僕の勤勉さに医師も驚き呆れていたが(そんなことはない),高々3ヶ月で歯が伸びきってしまい,治療が終了した。

そして更に良いことに,これは以前の記事でも書いたが,毎日欠かさずフロスをしていたことによって,虫歯が埋まった。

顎関節症の治療のおかげで,虫歯も治り,結構な費用節約になった。これが2018年上半期の主な出来事である。

そして,下半期からは,親知らずの抜歯が中心のライフスタイルを送った。

下の歯は,ちょっとだけ頭が見えている形であり,レントゲンを撮ると横向きになっているので,日大病院へ紹介された。医師曰く,「私がやってもいいんだけど大学の先生の方が上手だから(笑)」だそうだ。

日々親知らずの抜歯ばかりを手がける口腔外科の先生は予約でいっぱいで,7月末にようやく診察してもらうと,「はい,じゃあ始めますね」と抜歯が始まってしまった。その夜は日本橋で飲み会だったので,「え?今から?」と驚き断ってしまった(この部分は「驚き呆れる」みたいな感じで一気に発音する)。

ちょうど日本大学歯学部付属歯科病院が新築となり,8月・9月は移転で全く稼働していないということで,10月中旬にもつれこんだ。

親知らずの抜歯に関する,インターネット上で流布する様々なあることないことを読み込み,歯を取るつもりで命でも取られるのかというつもりで病院に向かったのだが,麻酔を打つとて痛いということはなく,ただただ先生が歯学生に「これは4年生の時にちゃんとできるようになっとらんといかんはずだぞ」などと叱りながら歯学生へ反省を促す方がよほど怖かったくらいである。

手術は準備も含めて30分で終わり,出血も少なかったのでさっさと帰された。人生が一時停止するくらい痛いものなので痛み止めを絶やさず飲み続けようと思っていたが,痛いという字はどんな字だったか,やまいだれに……あ,そういえば抜歯跡が痛いんだった,と他のことにかこつけて思い出さねれば分からない程度であった。

こんどは,かかりつけの歯科医院で,上の歯の抜歯をした。こちらは,これまでハードディスクドライブとたった2ギビバイトのメモリを搭載したOSがマイクロソフトウィンドウズビスタのパソコンを使っていた人が,ソリッドステートドライブと16ギビバイトのメモリを搭載したOSがマイクロソフトウィンドウズ7のパソコンを使った時のように,何もかもが一瞬であった。麻酔をかけるのに5分,歯を抜くのに30秒であった。痛みはないし,歯を抜いた後も痛くない。痛み止めは2回分しか処方されなかったし,1回分余ってしまった。

年末に片方,年始に片方で,ようやく,顎関節症の治療,虫歯の治療(中止),抜歯の全てが終わった。今後は定期検診のみである。

この1年間で変わった習慣が3つ。

まずは,歯科衛生士の言うとおりに,これまで寝る前と朝食後に歯を磨いていたところ,寝る前と朝起きてすぐに歯を磨くようにした。

次に,デンタルフロスを毎晩使うようになった。慣れるとなんでもないし,歯磨きが楽しい。昔歯磨きは3分間やりましょうなどと言われ,何をどのようにすれば3分も費やせるのか謎であったが,今ではなぜ3分で歯磨きが終わるのかが謎である。

そして,水を飲むようになった。ぼくは水なんてものは味気ないので常用するものではないというスタンスを幼稚園入園以来ずっと貫いてきたのだが,日常的にジュースやお茶を飲むのを止め,水を飲むようにした。ついでに間食もやめた。

いま,歯の数は28本である。8020運動などと言わず,このままキープしていけそうである。現在の日本の経済状況を考えると,恐らく80歳の時点で歯の価値は相対的に高くなっており,実質40本くらいになっていると見込まれる。

嬉しいという気持ち

情熱や怒りといったものが自分のなかにあるのを感じることは非常によくあるのだけれど,僕は,嬉しいという気持ちを感じることはとても少ない。

自分の能力をできる限り正確に見極めて,中期的な計画を立てつつ遂行していくという人生においては,成し遂げられなかった時に辛いことはあっても(ただし,本当に見極めが上手くなってくると,成し遂げられないことも考慮に入っており,つらさのマネジメントも十分にできる),何かを成し遂げることは既定路線であり,喜びはない。

nipo.hateblo.jp

この時から変わっていない,僕の性格である。

 

今日は,とても珍しく,嬉しいことがあったので,この気持ちを忘れても思い出せるように記録しておく。ただあまり大っぴらに言うことでもないので,Twitterにはこの記事を流さないでおく(ご存知の通り,ぼくは内容によってTwitterに流すか流さないかを選択している)。

博士課程への進学を決めたのは学部3年生の時である。調べ物は得意だったし,○○○○○卓○のおかげで研究業界の慣習に詳しかったこともあり,とにかく学部4年の研究室配属の段階から研究を頑張って業績を積み,DC1を取りにいくことを考えていた。ここで既定路線を作ったのである。あのとき[いつ?],東大に行こうと決めたのと同様に。

卒論の内容が研究会レベルになってしまった時点で,目論見が外れた。ただまあ後から考えれば,学部生なんてこんなもんである。修士から研究科を変えた。これも計画通りである。

問題となったのは,修士の研究であった。研究テーマは申し分なく,5年間かけるだけの価値のあるものだったし,僕も大変興味のあるテーマで,満足していた。だが,問題が難しすぎたのだ。M1の終わり頃,とても焦っていた。DC1に間に合わない。研究は,焦ってどうにかなるようなものではない。作戦の転換を迫られた。

しかし,どのような作戦を立てようとも,研究の道を行く以上,業績が必要だった。こればかりは,この状況下では分散の大きい変数である。全く予想がつかなかったため,既定路線を立てることができず,いくつか保険をかけるしかなくなった。

こんなに確率的で不安定な時期を過ごすことになるとは予想外であった。いっぱいかけた保険が発効する条件が,3月に投稿した論文のアクセプトであった。5月にアクセプトされたときは,心底ほっとした。これを受けて,7月に保険の1つが発効した。

DC2は,僕の中では絶望的であった。落ちることを前提に手をいくつか打った。精神的にも辛くないように,DC2よりも良い条件になる保険をかけた(具体的に言うと,月24万円以上調達できる計画である)。

書類審査の結果は,面接であった。

にわかに学振に気持ちが傾いたのである。あれこれ保険をかけたせいで,気持ちがぶれていたが,面接対象になったからには取りに行こうと思ったのだ。

なにより,次の論文が出る見通しがなかなか立たず,分野的にも華々しくないことをやっており,個人名で勝負しないといけない博士課程にあっては,自分の研究に箔をつける必要があると思った。

DCの制度は,はっきり言って,東京で一人暮らしをする院生にとっては最悪の待遇である。しかし,業績という観点では,最高に近い。

面接選考を終えてからは,東大受験の後と同じような心境になった。7年前の感覚がここに来て蘇るとは。例年,予算が閣議決定されてから,1~2営業日で面接の結果が開示されるにもかかわらず,何の連絡もなく1月10日まで延ばされ(元々募集要項には,1月上旬までに開示すると書かれているのだが,過去10年間ずっと年末にお知らせが来ており,もはや慣例とみなされていた),年末年始は何も手に付かなかった(この辺のメンタルを何とかした方が良いなと思う)。

今日になって,もう今日発表されるほかなくなったなと思いつつ,昼食に石焼ビビンバを食べていたところ,学振からメールが来た。結果を見て,思わず「よっしゃ」と言ってしまい,右手を上に突き上げてしまった。とても嬉しかったのだ。通ると思っていなかったから。宝くじと同じである。

嬉しいという感情は,こんな感じだったなと思い出した。湧き出でるような感じだ。何も手に付かず,目を閉じて,何かが身体を下から上に通過していくのを感じる。きっと宝くじで7億円当たったらこんな感じになるだろう。

 

僕の高校の部活の同期は,最後まで在籍していたのが6人で,2人が既にDC1を取っている。当時はこれといって成果も出ずハズレ学年という感じだったが,半分がドクターに進んでいるとなれば,JSTも大喜びではないか。

サンタクロースがやってくるというスパム情報にいつ触れるのか

先日,栄の松坂屋で「○○サンタさんからもらったんだ」と発言している男児を目撃し,いたく感動した。

この時期になると,「サンタクロースがいないと知ったのは何歳のときか」「サンタクロースが親であることを知ったのはいつか」といった質問が投げかけられ,しばし盛り上がることがよくある。

しかしこの議論は,「サンタクロースなるものが特定の日にプレゼントを置きに来る」という「事実」(実際にはフェイクニュースでありスパム情報)を誰もが知っていることが大前提である(信じていなくても良い)。

いつからこの情報を信じなくなったか,あるいは当初より信じていなかったかを発表し議論を深めるべき話題であるが,この話を振られる度に頑張って記憶をたどるものの,最初から最後までサンタクロースなるものがプレゼントを持ってくるなどということを考えたこともないのであって,そもそもそのようなことを(親などに)言われたこともないと気づくのであった。つまり,我が家には当該スパム情報は到達していなかったのである。

では大多数の人はどこでその情報に触れるのだろうか。幼稚園で教わるのだろうか。それとも親から直接その旨言われるのだろうか。

我が家における手続きは次のようなものであった。まず12月になると,何が欲しいか聞かれる。予算内であれば購入すべき旨決定され通知される。なお僕の金銭感覚は幼少期に鍛えられており,予算がいくらであるか明示されたことはなかったが予算を超える要求をしたことは一度もなかった。次に,恐らくここが重要なのではないかと思うが,購入に付き添うのである。欲しいものは欲しい人間が一番よく知っているのであるから,随行しない理由はないのであるが,これによってサンタクロースなるものが入る余地がなくなったのかもしれない。ただ,多数説ではないものの,

 という学説もあるので,この段階で直ちにサンタクロースを排除できるものではない。そして最後に,交付日にプレゼントが手交される。ここがミソである。要求,購入,交付にいたるまですべて親子で行われており,ここに第三者たるサンタクロースが入り込む必要がないため,最も単純な理解は,「12月になると(予算の範囲内で)好きなものを買ってもらえる」である。

僕が常々抱いていた疑問は,「誕生日が12月の人は誕生日にもらうべきプレゼントと,クリスマスにもらうべきプレゼントの両方をもらえるのだろうか」という心配なのであった(サンタクロース贈与説に立つと,誕生日プレゼントは親から,クリスマスプレゼントはサンタクロースからもらえるのであるから,このような疑問は生じない)。

「夢がないねえ」というのが大方の感想であり,夢ではなく現実であることは明らかであるから僕も同意するのだが,「プレゼントを誰からもらうか」が異なるだけであって結果は同じなのであり,夢を語るべきイベントでもないなと思う。小学生くらいの年齢の人間には,もっと大きな夢を語ってもらいたいものである。

ところで,クリスマス絡みのスパム情報はもう1つあり,こちらは回避できずに何年も信じ込んでいた。人間の言語学習能力というのは大したもので,12月25日がクリスマスであり,その前日になると誰もが「今日はクリスマス・イブだ」などと述べるため,「・イブ」に「前日」という意味があるものだと学習していたのである。従って,23日の天皇誕生日を指して「・イブ・イブ」などと呼ぶ場面も少なからずあった(天皇陛下は日本神道の総元締めであり,クリスマスを祝うわけがないが,学習院初等科では級友とどのような会話を交わしていたのか気になるものの,この時期は冬休みであった(それ以前に,陛下は昭和8年生まれであり,当該期間は戦争真っ只中だったではないか))。

スパム情報というのは大変強い力をもっており,英語を学び「・イブ」がeveningであることを知った際には,「なるほど,eveningには『前日』という意味もあるのか」と思ったほどであった。

Juvenile Delinquency

どの大学受験用単語帳にも必ず掲載されているが一度も使われているところを見たことがない語句,それがjuvenile delinquency(青少年非行)である。

 

英語の勉強をきちんとやろうと思って,某英語学校に通い始めて約1ヶ月が経過した(「nipox25 英語」などで検索すれば詳細が出てくるので,ここでは述べない)。

 

僕がいるクラスは,高校までの英文法については特に問題がなく例文くらいならササッと作れるが,長めの文(節が2個以上)になると厳しい,という感じのレベルの人が集まっている。周りの人たちのバックグラウンドはさっぱり分からないが,話を聞いている限りではずっとこの学校で学んでいる人が多いようである。

それにしても,某塾で5年間英語講師をしていたのは大きかった。文法事項について何ら困ることがないので,特に応用の面で力を発揮している。例えば,何らかの例文が与えられて,能動態を受動態にせよとか,時制を変えるだとか,そういったことを指示されてとっさに口から英文が出るかというと,結構難しい場合もある。この点,同じような文を毎日連呼していた経験が生きている。

それはともかくとして,1つの学校や1つの教師から何かを習うと,なんらかの方法論を獲得することができるわけだが,果たしてそれが普遍的なものであるか不安に思うことがよくある。中学でも高校でも予備校でも感じてきた。英語という科目は最たるもので,平素より英語が使用されている空間にいないのであれば,確認のしようがないのである。例えば,○○の用法を5種類習ったとして,果たして本当に5種類も使われているのだろうか,などと思ったりする。あるいは,○○というややこしい表現を習ったとして,本当にこんな言い回しをしているのだろうか,と思ったりする。そして,いつもと違う人から同じことを聞くと,たいそう安心するのである。「おお~○○と××の違い,ここでも同じように教えているんだ,安心した」といった具合である。そして留学生が使っているところを聞くと「おお,世界的に共通しているんだ良かった」と安心する。

 

先日,例のフィンランド人が横浜に来たので会ってきたのだが,会話中,pronunciationという単語を僕が発したところ,たいそう嬉しそうに「素晴らしい,うちの教授が大変喜ぶだろう」と言われた。日本の大学受験生なら誰もが知っているように,動詞のpronounceと名詞のpronunciationではnounがnunになっている通り,第2音節の発音が違う。なんでも,彼の教授はこの違いを非常に気にする性格だそうである。彼はブラックニッカハイボールをマズそうに飲んでいたが,「ブラックニッカ」はblack niggerにしか聞こえないため大変差別的な名前であると言っていた。確かにそう聞こえる。新たな気づきだ。

 

さて,今日ついに,7年の時を経て,juvenile delinquencyという語句に出会った。感動的である。同時に,僕は7年もの間,青少年非行に関する英語で書かれた文章を一度たりとも読んだことがなかったということが分かってしまった。

学んだことは直ちに使おうと努めなければ,使うべき場面に出くわすのに7年くらいかかってしまうということである。そして,7年経っても忘れないように知識はいつでも出せるように時々脳内で反芻しておかなければならないのである。

Strangers' Non-verbal Communication

これは,東京の都心で繰り広げられている,見知らぬ者同士のノンヴァーバル・コミュニケーションを書き起こしたものである。

 

「む!」

『む!』

「このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる」

『このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる』

「これ以上速く歩けないので減速するしかないな」

『これ以上速く歩けないので減速するしかないな』

「減速」

『減速』

「なんと!」

『なんと!』

「こいつ認識しているな...」

『向こうも減速したか...』

「そっちは...」

『こちらは右に曲がりたい』

「なるほどではこちらも右に避ける」

『よし左に行くようだな』

「よし左に行くようだな」

 

この間僅か0.5秒,歩数にして1歩である。

 

うまく行かないパターンは2通りである。

まずは,コミュニケーションは取れているが片方の頭が悪い場合。

「む!」

『む!』

「このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる」

『このままのペースだとちょうどあの人とぶつかる』

「こっちは左に曲がることができない」

『左に曲がります』

「それだとぶつかる」

『左に曲がります』

「だからこっちは右にしか行けない」

『ぶつかる』

「ぶつかった」

 

もう1つは,片方にノンヴァーバル・コミュニケーションの能力がない場合である。

学振面接(DC)

昨日の夜,飯田橋の「つじ田」でつけ麺を食べていたら,荒城の月が流れていた。荒城の月といえば,山田耕筰作曲(本人は編曲だと言っているが,メロディを変えてしまうのは編曲とは言わない)のものが有名だが,オリジナルは滝廉太郎作曲である(音楽の授業でどちらが好きですかと聞かれた記憶がある)。本件について最も有名なブログ記事があるので興味があれば読んでみると良い。

d.hatena.ne.jp

半音云々といえば,グリーンスリーヴスも旋律を思い出してみると,「ソシードレーミレー」と来て若干の違和感がある(階名がスラスラと出てくるので,恐らく小学校でリコーダーか何かを使って演奏させられたものと推定される)。ここでいう「ミ」が半音低かったようなそうでもなかったような感じだ。

そこで「グリーンスリーヴス 半音」で調べてみるとやはりいくつか該当する。

blog.goo.ne.jp

こちらは荒城の月と違って民謡なのでどちらが正しいのかハッキリさせる意味はないが,楽器によって異なるかもしれないという情報を得た。

グリーンスリーヴスについては以前書いたように,

nipo.hateblo.jp

小学校時代毎日聴いていたので,その時の旋律が耳に焼き付いている(なおこの幻想曲はAmazon music unlimitedに収録されている)。

しかし今聞いてみると,幻想曲は半音高い。そしてリコーダーを使った場合,わざわざ♭をつけることはしなかっただろうから,やはり半音高いのではないか。

低い方はどこで聞いたのだろう。

 

今日は,日本学術振興会特別研究員(学振DC)の面接選考だった。

あまりにも情報が少ないので,記録のために記しておこうと思う(こういうのは僕のお家芸?であることだ)。

まず,なぜ面接があるのか,という点だが(ここから先はある程度の事前知識が必要である),巷でまことしやかに言われている,予算編成の問題である,というのは,多分正しい(自民党が政権奪還した2012年12月の選挙の後,予算編成がどうなるか分からないということで結果発表が延期になったことは記憶に新しい)。

文部科学省の概算要求のページを見れば,文科省財務省に対して学振特別研究員のためにいくら予算を要求しているかが分かる。

そしてこれは,ふつう,最終的に通らないのだが,学振特別研究員については,ちょっとだけ増額されるのである。

2018年度の概算要求にある,採用人数の要求は,1,847人であり,1,778人(2017年度)から69名増えている。結果どうだったかというと,JSPSのサイトを見れば分かる通り,1,807人であった。ちなみに,この時,月20万円の研究奨励金の増額も要求しているが,はねのけられている。

来年度,2019年度予算では,なんと強気の2,154人を要求している。最大で347人も増えるとなると,予算が閣議決定される今月半ばまで採用内定を出し切ることは難しい。

ただ面白いことに,どの程度の人数を面接枠に持っていくのかは年によって違うようである。ここ数年は,殆ど面接無しで採用している。今回は,面接で合格するラインは4割くらいだと思われる(全体の採択率は毎年かなり安定しており,そこから逆算した;予算の増減関係なくね?とも思ってしまうが...)。

ここから本題である。

まず,10月の書類審査の発表で,面接候補と表示され,さらに面接の日時が画面に表示される。7日以内に出欠を返答しなければ欠席とみなされる。書類での通知や大学経由での通知は一切無い。

面接は,よく知られているように,4分のプレゼンテーションと6分の質疑応答で構成される。システムからA41枚のPDFファイルがダウンロードできるようになっており,そこに注意事項が書かれている。プレゼンテーションで含めるべき項目についても書かれている。

会場は,JSPSが入っている麹町ビジネスセンターである。面接日時に記されている時刻は,まさに面接の開始時刻であった。30分前に受付を済ませるよう指示があるが,受付後10分くらいで呼び出され,会議室の前で待機させられる。

小中学校の内科検診のように,流れ作業である。印刷資料は入室直前に回収される。手荷物も全て係員が持ってくれ,ドアも開けてくれるので,こちらはノートPCを手に持って入り,発表し,質疑応答を済ませ,ノートPCを持って退場するだけである。こうでもしないと時間が押してしまうのがよく分かった。

ビルのフロア自体がいくつかの会議室から構成されているのだが,会場はそのうちのいずれか,である。面接自体は何日かにわたって行われているが,今日は工学や情報学であった。控室では,一切の会話がない。みなPCに夢中であった。当然である。

会議室は想像以上に狭い。Uの字になったテーブルに,審査委員と職員が座っており,スクリーンの端に発表者用のPCを置く台があるが,普通の机なので,演台のように高さはない。入室し,PCをプロジェクターにつないだら(mini D-sub; いわゆるVGA端子; 控室に接続テスト用のプロジェクターが何台か置いてあった)直ちに発表が開始される。

タイマーが鳴ると,係員が「発表終了」というボードを掲げてこちらに合図する。話し終えると直ちに質問が始まる。これもまたよく知られているように,質問をしてくる先生は全員ではない。僕の場合は3名だった。矢継ぎ早にポンポンと質問が来る。6分しかないので,質問する方も大変であると思ったが,質問が途切れることはなかった。かなりフランクな感じで,「これ○○にも使えるんじゃないかねえ」とか「それどうやってやんの?」とか,いつもの進捗報告と大して変わらない感じである。これは情報学の慣習かもしれない。

作戦を立てる際にある程度予想していたように,具体的な手法云々について問うような質問はなかった。全体像を把握して何をしようとしているかを理解するための質問と,応用に関する質問が主であった。テーマ設定の動機(聞かれた)や,コネをアピールした場合にそれが本人のものなのか指導教員のものなのか(声が漏れているのでちょっと聞こえた),といった部分も聞かれやすいようだ。研究テーマにも依ると思うので何を聞かれても良いようにしておくべきではある。予備スライドを3枚作っていったが,うち2枚を活用することができた。

服装であるが,申請者の男性は僕以外全員スーツであった。女性はまちまちであった(女子高生かよ!!みたいな格好の人がいてウケた)。そんな10分の発表のためにスーツなんか着ていくかよ。終わったら研究室に戻って研究するわけだからね。

終了後は,直ちに退室し,かばんを係員から受け取って,すぐさま既に階下行きのボタンが押された状態のエレベータホールへ退出を促される。

ちなみに,ごたごたしていたら時間ギリギリになったので,会場へはタクシーで行った。東京駅方面から来るタクシーは実車ばかりだったので逆方向のタクシーを拾って「麹町まで」って言ったら「えっ」って顔をされた。しょうがないじゃん,こっちも「えっ」だよ。それでも都心のタクシーは優秀なので「麹町!新宿通り!」って言えば学振の前まで連れて行ってくれる。