人の話を聞くことは極めて高度で常人には終ぞできないこと
ここ数年,学校でのあれこれがTwitterをはじめテレビまで巻き込んで問題になることが目立っている。具体的には,例えば,かけ算の順序問題,それから,漢字の書き取りテスト等である。これらは,ひっくるめて,超算数とか,超国語と呼ばれているようだ。
大方,学校がおかしいという論調であるし,その学術的または政策的根拠も示されているので,理解できる。そして本稿では各問題の実質的議論には立ち入らない。なぜなら,これら一連の問題は学校の教授法云々以前にもっと大きな問題を抱えているからである。
僕が「かけ算の順序問題」に違和感を持ったのは,自らの経験上,小学校で「かける数」と「かけられる数」という表現で教わったことは明確に覚えているものの,これが問題となってテストで減点されたことがないからである。なぜ減点されなかったか。教員が数学的に同等のものであり減点する余地がないとみなしたからだろうか。多分違う。かける数とかけられる数の順番を「正しく」答案に書いたからである。
漢字テストの件も同様である。漢字テストで,はねやとめ,はらいで×になったことがない。なぜならその通りに書いているからである。
逆に,どうしてこうした問題を提起してしまうような答案が発生するのかを考えたい。まず,かけ算の順序であるが,小学校でかけ算を習うときに順序と一緒に教わるので,その通りにやればテストで「順序を間違える」ことはない。次に漢字の書き取りであるが,小学校では筆順まで丁寧に教えてくれるので,筆順からなにから教わったとおりに書くことになる。よってテストでとめやはらいで減点されることはない。
尤も,そもそも立式を間違えることはあるし,違う漢字を書いてしまうことはある。しかしながら,これは同種の間違いではない。算数においては,文章題を解釈するという頭を使う部分と,式を書くという手続の部分があるが,手続は決められたとおりにやるだけであり,難しさはない。漢字も,何を書くかは理解を必要とするが,文字を書くのは単なる手続である。
従って,大議論を呼び起こしているのは,主に手続の過誤である。実質が正しいのだから,手続は不問にしろということである。なお本稿では先述の通りこの善し悪しについては立ち入らない。
問題は,なぜ,手続の過誤を起こす児童生徒がいるのかである。簡単に言えば,言われたとおりの手順が踏めないということである。これにはいくつかの可能性がある。まず,学校以外の場所で異なる手続を学んだ場合である。例えば,塾に通っていて,かけ算の問題について異なる知見を得た場合や,街中で見かけるゴシック体やポップ体の文字を見て漢字を覚えた場合である。これなら特に問題は無い。次に,完全に理解しているものの,自らの思想上,異なる手続を取りたい場合である。例えば,「絶対に小さい数×大きい数と書きたい」とか,「漢字は篆書体に限る」等である。これも,分かってやっているのだから問題ないのだが,わざわざテストで減点される方法を採っているのだから,擁護できない。3つ目が問題である。それは,学校で教員の言っていることが理解できない場合である。「手偏は撥ねますよ」と言われても,何を言っているのか理解できないということである。あるいは黒板に手偏が書かれて,「ここが撥ねています」と説明されても,何ら知識として落とし込めないということである。これは本当に深刻である。そして思ったより多くの人が,いや,大多数がこの状況にあるものと思われる。小学校1・2年生水準の手続を満足に教わることができないまま,成長すると,例えばセンター試験で再三の指示があったにもかかわらず受験番号をマークしないというようなことが起こるのだろう。
言われたことができるということは一般的に高い能力を示すが,言われたことができないというのは単に力不足ということであり,仕方ない面がある。ところが,言われたことが理解できないというのは大問題である。そういえば,塾講師をやっていたとき,よく「言ってる意味分かる?」と聞いたものだ。高校生にもなれば抽象的な説明も増えるが,手偏が撥ねることも理解できないのならば,やるだけ時間の無駄であった。
ペットボトルのラベルを剥がさないで捨てて良い自治体は殆どないが,お構いなしにゴミ集積所に出されるのも,日本語の意味が分からないからである。押しても信号が変わるわけではないのに,視覚障害者用のボタンを押すのも,そこに書かれている日本語の意味が分からないからである。料理のレシピは悲惨なのではないか。あれこそ量と順番が極めて重要であるが,おそらく半分も理解されていないだろう。レシピ通りにやっているのに上手く料理が作れない人がいたら,小学校の算数のテストを押し入れから引っ張り出してくるよう勧めたいものだ。
参考書ソムリエコンクール2020過去問テイスティング観戦記その2
「第2問です。」
「ではどうぞ。」
『縦書きなので現代文だと思います。倫理ではありません。』
『(これは東大の過去問にあったな・・・)』
『(何年だ?)』
(黙っちゃったぞ...)
『えー』
『東大の過去問であると思います。』
『文理共通です』
『国語の第1問です』
『(何年だったかな……)』
『ええと,2019年はカオスがどうのこうのという内容なので,物心二元論は出ていません』
『2018年は文章が敬体でした』
『2017年は...というか』
『物心二元論が出てきそうな内容,』
『(う~ん)』
『原研哉の「白」よりは後だと思うんですね』
『「白」は2009年に東大,早稲田文,学習院文,成蹊文で出題されて話題になりました』
『(もう年は分かんないから範囲を狭めて点数をもらおう...)』
「時間です」
『え~,東京大学,国語,第1問,前期,ん~~2010年から2013年のいずれか!』
『あっ!!!!ああっ』
『下線部1になっている!東大の下線部はアイウエオだ......数字じゃない......』
『(うっっわ大学間違えた...)』
(うっっわ大学間違えたか~)
※出典:河野哲也『意識は実在しない』
参考書ソムリエコンクール2020過去問テイスティング観戦記その1
(ワインの)ソムリエコンクールの決勝は,テイスティングだけではない。料理との組合せはもちろん,サービスの技能まで競われる。同様に,参考書ソムリエコンクール決勝では,参考書の知識だけでなく,過去問の知識,児童生徒のレベルに合わせた参考書問題集の推薦や,やる気の引き出し方,保護者への説得に至るまで,あらゆる技能が試される。
以下は過去問テイスティングの一部である。過去問テイスティングは,過去問を見て,何年の,どの大学・学部・試験方式の問題かを当てるものである。その過程をつぶさに口に出しながら解答せねばならない。
「それでは過去問テイスティングに入ります。言語は日本語またはフランス語が使えますがどちらにされますか」
『japonaise』
「それでは過去問です」
「どうぞ」
『これは...これは数字とアルファベットの対応表に見えます...』
『この独特の対応関係は早稲田大学の理工3学部の英語だと思います...』
(おっ科目と大学まで一気に絞ったぞ...!!)
『これは...英単語の説明が英語で書かれており,当該の英単語を選択肢から選ぶ問題ですが...』
『英単語のスペルがこの表の数字と対応し,数字で選択肢が書かれている問題です』
『ですから,第5問...早稲田大学創造基幹先進理工学部の第5問,英語,』
『毎年同じ形式が踏襲されています...』
『何年でしょうか...』
『直近数年は全く同じ対応表が使われていたと思います...』
『従って,やや古めの香りがする...』
『この形式になったのは早稲田大学理工学部再編の2007年からです』
『従って2007年以降』
『(何年だ...?10年分解いたときには全部同じ表だったはず...したがって2007~2009)』
『(途中でころころ変えるだろうか?早稲田理工はずっと傾向は変わらない...)』
(黙っちゃったぞ大丈夫か...?)
『むむむ...』
「時間です」
『えー,英語,早稲田大学基幹・創造・先進理工学部一般入試の第V問,2007年。』
吉野家つながる食堂
書いてみたらまとまりがなく面白くないので破棄しようと思ったが,それももったいないので一応載せることにした。
某投稿を読んで,今日から前後3ヶ月のどこかで,吉野家のつながる食堂を体験した(利用者があまりに少なく,利用日を書くと誰か分かってしまうのであやふやにしている。本当に吉野家だったのかも疑うべきである)。
徒歩圏内に住んでいない友人知人と気軽に飲み会を開催するのは難しい。これはよく知られた問題である。昨年この問題に取り組んだときは,以下のような手法を用いた。
人生初のSkype飲み会をやるが,せっかくなのでつまみ類全てセブンプレミアムにした
— ⃰நீப்பொ (@nipox25) 2019年2月3日
参加者は4~5名で,skypeで通話をしながら各自酒を飲むというものである。
この詳細を思い出す前に,skype飲み会に至った背景について説明しておきたい。2018年12月1日に,何人かで新宿と吉祥寺で飲んでいたときに,突如他のメンバーがオンラインで参加したことがあった(skypeかLINEか記憶にない)。どちらでも酒を飲んでいたこともあり,遠隔飲み会の可能性を感じたのであった。この経験から,その後同じメンバーで飲み会を行う際に予定が合わなかったところ,skypeで良いという結論に達したものと思い出される。
さて,skype飲み会と普通の飲み会の共通点と相違点を特に区別することなくダラダラと述べたい。お店で飲まないのであれば安上がりになるだろうという期待があったのだが,準備・片付けの面倒くささと,コンビニのつまみが大して旨くないという欠点があり,損得は一概に言えなかった。複数人数での会話は成り立ったものの,目線が合わないのでライブ感に欠けた。いわゆる宅飲みから臨場感が失われたわけである。しかし,移動の手間が省けるという魅力はあった。
吉野家つながる食堂は,店舗内の個室で,ビデオ通話をする仕組みになっている。ハーフミラーを用いた機構により,カメラと目線の位置が一致するので,相手と目が合うようになっており,skype飲み会ほど臨場感は失われない。画質がやや悪いのと,音声がややぼんやりして同時に発声すると聞き取れない点が通信面での欠点であった。
最大の利点は,自分の家ではなく,吉野家であるということである。従って,準備や片付けは必要なく,料理は頼めば運んできてもらえる。僕の感覚としては,普通の飲み会に近い。従って,skype飲み会の吉野家版というよりも,吉呑みの遠隔版という感じがした。非常に話ははずんで,2時間の予約であったがあっという間だった。
体験としては結構面白かったので気に入ったのだが,費用がけっこうかかってしまった。吉野家なので安上がりになるかと思ったのだが,1時間1000円のチャージは結構なものだ。2時間で2000円,普通の居酒屋と変わらない結果になってしまった。大阪まで移動すると思えば,いいんだけど。
- 角ハイボール 325円×2
- 牛すき鍋(単品)・並 548円
- メンチカツ 176円
- 牛肉コロッケ 176円
- 鯖みそ 315円
- から揚げ 121円
- アジフライ 176円
- ルーム利用料 2,000円
- 消費税 416円
合計4,578円だった。うーん・・・もしかすると食べ過ぎかもしれないな。
年の善し悪しは1年遅れてやってくる
大晦日に記事を書くのは,2015年以外,毎年やっているようだ。2015年末は何が合ったのか。卒業論文である。中身がスカスカのあれを書くのに,年末年始を費やしたのだろう。実際には,アノテーション作業を頑張ってやっていた。よく覚えている。
日本語の文章なので,結論を後回しにしてまずは今年を多面的に振り返る。
研究そのもの
年始~3月はとにかくACLに向けて論文を書いていた。指導教員は忙しく,僕の研究内容を完全に理解する時間がない。研究はつくづく孤独である。尤も,孤独でなければ第一著者を誰にするかで揉めることになるのだが。
5月に論文が落ちてから,大変だった。何もかも計画が狂った。調子が戻ってきたのは7月である。いくつかアイデアが出てきて,試しては上手くいかないということを繰り返していたとき,フランスからサバティカルで准教授の先生がやってきたのだ。この先生は第一著者で論文を書き続けている気鋭の研究者という感じで,早速僕の研究について議論に入ってきた。これまでもたくさんの人が色々な国からやってきて研究室に滞在し,去って行ったが,何ら僕の研究の足しになったことはなかったので,説明するのがおっくうだった。
僕の研究は堂々巡りになっており,Aをすべきだが,そのためにはBが必要で,BをやるためにはCが必要で,CはAが前提となっていた。その先生は,僕との議論で完全に研究を理解し(完全に理解するまで質問が止まらなかった;この姿勢は見習わねばならない),即座に「Bから始めるべきだ」と言ってくれた。
8月から研究が動き出した。いっちょハードワークをやってみようと思って,9月2日から,台風の10月12日を除いて,土日祝日も関係なく研究室に行き,平日は夜遅くまで残って実験をした。
驚くほど研究が進んだ。9月末には結果が出揃い,論文を書いていた。そこから加筆を繰り返して,11月末に投稿した。
論文に書ききれなかった結果があり,投稿先を探しているところである。IJCAIに出そうかと思っていたが,僕の研究は言語学っぽい部分が強いので向いていないかもしれない。
何より悔しいのは,ACLに出せなかったことだ。計算言語学をやっている限り,ACLには毎年出したい。しかし打算的になった。結果はあった(11月末に論文を書いているのだから)が,ここでrejectを喰らうわけにはいかないという判断をした。
実は,ACLに出すために裏でコッソリ別の実験をしていた。11月始めによい感じの示唆が得られたので研究室内で発表したところ,受けが良かったのでこれはいけると思ったが,ACLには間に合わなかった。
質問がいっぱい来たので筋は悪くなさそう
— ⃰நீப்பொ (@nipox25) 2019年11月8日
こうしたこともあり,すでに書けそうなネタが2つ,他にもやるべきテーマが2つほどあり,来年は4本は書けると踏んでいる。
政治的なこと
学振DCの面接の結果が1月10日にもつれこんで,胃の痛い正月を送ったのだが,無事に採用になった。これで多少箔がついたと思って,以下のようなことが起こった。
そして,こうなった。
で,こうなった。
今年は文部科学省のポンチ絵や,NISTEPの資料を読みあさった。
博士課程が魅力的になり,学生が我も我もと押しかけ,選抜が機能し,研究レベルが向上することを願うばかりである。
どのくらい減らすかというと,ちょうど僕が学位を取れないくらい減らすと良いと思う。
— ⃰நீப்பொ (@nipox25) 2018年8月24日
写真で振り返る2019年
駅は場所によって音が違う。音で場所を当てるという仕事をやって,herokuにデプロイした。
東京三大商店街(三大銀座)である十条銀座を歩いた。砂町銀座は何年か前に行ったので,あとは戸越銀座を残している。
変わりゆく本郷。いや,東京というのは変わり続ける街なのだ。あらゆる権力がその大きさを見せつけようと,好き勝手に街を壊し続けていく。某氏曰く,汐留がその最たるものだそう。
言語処理学会年次大会が,名古屋大学で開催された。行く気はなかったのだが,みんな行くというので急遽行くことにした。名古屋大学は名駅から遠いので,しかたなく八事で我慢した。
東京メトロ東西線・神楽坂駅に新しい出口が新設された。神楽坂駅は,A線もB線も北側のドアが開くのだが,なぜか車両内の「ドアどっちが開くの案内」は,神楽坂駅だけ,無しになっている。
大阪にある海遊館に行った。
高円寺にある餃子バーが閉店してしまった。移転先は,鎌倉。
あの赤坂飯店が軽井沢に?!
赤坂飯店といえば,安倍総理大臣がマスコミを懐柔するために食事をした場所として名高いが,竹橋駅の毎日パレスサイドビル内にもある。担々麺の人気が高いが,いつも炒飯を頼んでいる。
なぜ,軽井沢にあるのか。
フィレンツェから東に15キロメートルほど行ったところに,カステッロ・ディ・ニポッツァーノという街がある。そこにワイナリーがあるのだ。
12年にわたってファンをやっているHot Chipの初単独ライブにして,自身初ライブ体験であった。この時お腹の調子が悪い。翌日,10月12日,台風で大荒れのなか,トイレに籠もることになる。なお,この記事もHot Chipを聞きながら書いている。
気がついたら,木更津にいた。英語で書けば,I found myself in 木更津.
めぼしい写真が1年の前半に偏っているが,これはハードワークのせいである。
ブログ記事で振り返る
生きていると,突然突拍子もないアイデアが浮かんでくるものである。それをこのブログに書き留めることがある。全くウケを狙っている訳ではないのだが,時々チョットだけ反応をもらう。
これは,やっていないことを書いたらどうなるかを試した記事である。
Twitterで流行っていたので便乗した。140字では到底表現できない後味を出すことに成功した。
現金のない世界で現金を使ったら今(キャッシュレス決済が使えない)と同じことが起こるかどうか,ふと頭に浮かんだものを言語化したものである。
個人番号について調べていたら,法人番号について調べていて,その時に思いついたのがこのクイズである。
語学
僕がタミル語の単位を4単位持っていることはよく知られているが,相変わらず身につかない語学をやっている。外国語に触れていないと頭がおかしくなりそうだ。ところで最近,日本語力が落ちてきた,いや年齢相応に上がっていないことに気がついた。難しい言葉の意味が分からない。
英語は,真剣に学習する人のみ募集している学校に通っていたが,ACLの締切のせいで,なんと半分以下の出席率となって卒業してしまった(論文落ちるなら英語をやれば良かった)。にもかかわらず,TOEFL iBTは85点(受講前)から102点(受講後)に跳ね上がった。
来年はCOLINGがバルセロナなので,スペイン語のおさらいをしようと思って,研究室に文法書を配置して計算を待っている間に読んでいた。ところが,フランス語を勉強した方が良さそうな雰囲気になってきたので,12月からフランス語を勉強し始めた。多分来年はどこかの学校に通うだろう。
結論
今年は,なんともならなかった。業績もゼロ。非常につらい1年だった。しかし,その原因は大方去年にあるのだ。そして,本年後半は結構頑張って物事を進めた。結果が出るのは来年だ。
常々感じて,人にも言っていることだが,年齢を重ねるごとに,人生のステージが上がっていくごとに,物事にかかる時間が長くなる。
小学生の時のビッグプロジェクトはなんだったか。運動会,学習発表会,その程度である。児童の準備期間はせいぜい1ヶ月である。物事はせいぜい1ヶ月の幅でこなしていけば良かった。
高校生になると,受験などといって,半年~1年くらいの幅で物事を進めていくこともあった。部活で研究っぽいことをやっていたが,発表の申し込みなど,1~2ヶ月先の目途を持っていることが多かった。
大学に入ると,1年半後の進学振り分けのことを皆意識していた。サークルを作ったが,やはり1年くらいのスパンで物事を考えていた。
研究をするようになると,1つの課題に対しては数ヶ月,全体のテーマに対しては数年の計画を立てることが多くなった。修了までに2年あっても,「時間が足りない」などと言うようになった。
子どもの頃,ニュースを見ていて,長期的な計画について「政府は,平成20年度までに……」といった表現を耳にする度,気の長い話だ,待てないなと思ったものだ。東京オリンピックも,「7年も先の話か…」と思ったし,リニア中央新幹線も,「そんな先のこと…」と感じたものだ。数年単位で物事を考えるということが,全く現実味を帯びていなかった年齢から,もう何事も5年くらいの単位で考えないといけない年齢になってしまった。
来年の目標は,明日立てるのだろう。しかし,10年前とは異なり,来年どうなるかは今年の頑張りによって,もうほぼ決まっているのである。来年の目標は再来年以降の結果のためのものである。1年という単位で目標を決めて振り返るのは,せいぜい高校生くらいまでのやり方なのではないか。
言語学は科学か,人文学か
僕が言語に興味があると自覚したのは,たぶん大学1年生のときに受けた「言語学とフィールドワーク」(小林正人准教授)を受けようと思った時である。思えば,ずっと英語が好きな科目であったが,高校の英語の授業で先生が脇道に逸れてあれやこれやと豆知識みたいなものを述べると,面白がって聞いていたのだから,言葉そのものに興味があったのだろう。
タイトルに「言語学は科学か,人文学か」などと大げさなものを掲げたが,本稿は結論を出すものではない。言語学を主題にしているが,そもそも僕は言語学を専攻していない。科学か人文学かという問いを立てているけれども,その違いもよく知らない。要するに,思ったことを根拠無く述べるものである。故に,思い違いや誤りがあると思われるが,お気づきの方は遠慮無く出典を示してご指摘頂きたい。勉強させて頂く。
言語学というのが文学部でやる学問で,故に人文学であるという認識をずっと持っていた。学部3年で教養学部後期課程に入ってから,言語学のコースを副専攻として履修した。取ったのは,統語論(森芳樹教授),認知言語学(大堀壽夫教授),英語科教授法(トムガリー教授),英語学(寺澤盾教授),音韻論×2(田中伸一教授)であった。いずれも出来は非常に悪かったが,特に音韻論の授業に惹かれたのを覚えている。
音韻論は,いわば音の文法である。どういった環境で音が変化し,あるいは変化しないのかを解き明かしていく。代表的な例が連濁である。西船橋が「にしぶなばし」にならないのはなぜなのか,ということを記述できるようにしていく。色々な例を挙げながら,ルールができあがっていく過程は,いかにも実験科学の様相であった。言語学は科学なんだなあと感じた。言語科学という言い方もあることを知った。
科学か科学でないかということをきちんと考える羽目になったのは,科学史(岡本拓司教授)の授業を取ったときである。なんとなく分かったような気もするし,分からないままやっているような気もする。科学とは○○であると一応述べることはあるにしても,いくつか反例が出てきてしまうような気がして,何も言わないことにしている。もやもやが残っていたのだろう。科学哲学(信原幸弘教授)の授業も取った。しかしサッパリ,面白いと思えなかったのである。こんなことをしている間に,科学はどんどん進んでいってしまうぞと思ったのが正直なところである。
博士課程に入ってから,人文学って何だ,という疑問を解決していないことに気がついた。対象が自然ではなくて人間というのは,ちょっとどうかなあと思う。学問の世界は方法で分けられているなあと感じることが多いので,人文学の方法があるはずだと思うようになったのである。
これは,社会学というものを漠然と理解する必要性に迫られたのがきっかけである。僕は,勝手なイメージで,社会学というのは社会のなんやかんやを解明する学問だと思っていた。これを実証主義というらしい。そしてこれはもうオワコンで,今は(少なくとも日本では)やっていないらしい。じゃあ社会学って何なんだ?と思ったのだが,社会のなんやかんやを解明するのではなく,解釈を与えるのだということを知った。それならば納得である。解釈なのだから,正しいかどうかなんて分かりはしないわけで,ただ妥当かどうかを多少考えるくらいしかできない。言ってみればお気持ち表明なのだなと理解した。
計算言語学(というよりも,むしろ自然言語処理)をやっていると,コーパス言語学との距離が近い。とはいっても,目的が全く異なるので,交わることはないのだが,先日たまたまコーパス言語学者の方と話す機会があった。そこで教えてもらったのが,corpus-basedとcorpus-drivenという2つの概念である。corpus-basedは,先に「言語の○○はこうである!」と決めて,その証拠をコーパスから探すというアプローチである。corpus-drivenは,コーパスそのものから「言語の○○はこうである」という理論を導くアプローチである。前者はお気持ちである。だから,他の人が研究するのが難しい(提唱した本人と,同じ大学にいる人間にしか分からない)。そして,各自が勝手にやった結果,全く同じことを違う言葉を使ってやっていたとか,同じ所にたどり着いてしまったとか,そういったことが起こるらしい。なるほどこれが人文学かと妙に腑に落ちたものである。
何かを解明しようといった,自然科学の世界から見ると,無意味にみえる場合もあるかもしれない。しかし,上述した,僕の偏見による人文学の定義(?)においてもなお,必要な学問の手法である。例えば,真理を解き明かすのではなく,正義を解き明かすという目的は,人間の社会において重要である。あるいは,妥当なルールを作る必要は,常にある。これは自然科学の手法ではどうしようもない。その時代のその地域の人々が,「まあ妥当である」と思える解釈を生み出し,規範を作らないといけない。さらに,その時代や地域の差異を乗り越えないといけないこともある。こうした要請に応えられる手法は,科学のそれではないと思う。
言語そのものには無意識に出来上がった部分があり,科学の手法でこれを解明することがある程度できるが,同時に人間が相互の関わり合いのなかで意識的に積み上げてきたものでもあり,人文学の手法が何かを明らかにしているのだろう。
法人番号クイズ
「法人番号クイズ~!!」
(?)
(?)
(?)
(?)
(?)
「次の法人番号はどこの法人番号か答えよ」
(なに・・・)
(なんだと・・・)
(知るわけないだろ・・・)
(問題にできるということは・・・)
(答えが出せる法人・・・国の機関しかない・・・)
「3」
(チェックディジットだ・・・)
(チェックディジットだ・・・)
(チェックディジットだ・・・)
(チェックディジットだ・・・)
(チェックディジットだ・・・)
「0」
「0」
(国の機関で決まりだ・・・)
(民間企業ではなくなった・・・)
(会社じゃないな・・・)
(健保組合ではなくなった・・・)
(まだ地方公共団体の可能性がある・・・)
「0」
「0」
「1」
「1」
(1だと?!)
(1だと・・・)
(国会の機関?!)
(国会だ・・・)
(国会ならば・・・)
『衆議院!』
ブ~~~~
「違います」
(何っ)
(ということは)
(これはやられた)
(もうあそこしかない)
(負けたかっ)
『参議院』
ブ~~~~~!!!
「違います」
(何?!)
(何だと・・・)
(両議院以外に国会の機関があったか?!)
(あそこだ,あそこしかない)
(あそこだな)
『国立国会図書館!!』
(決まった・・・)
(やられた・・・)
(あ~~)
(これだな)
(答えだな)
ブ~~~!
「違います」
(何?!)
(どういうことだ・・・)
(国会の機関・・・国会の機関・・・)
(待てよ・・・)
(チェックディジットが3だったな・・・)
(チェックディジットが3!)
(つまり最後の桁は3!)
(3000011000003だ!!)
(どこだ?)
(3番目の機関・・・)
(建制順・・・)
(法制局か・・・?)
(どこだ・・・)
(そうだ憲法を思い出せ・・・)
(国会法に規定されていたのは確か・・・)
(国会に設置されるのは・・・)
(国会だから・・・)
「はい時間切れ~~~」
「正解は・・・」
「裁判官弾劾裁判所でした。」
(あ~)
(あ~)
(あ~)
(あ~)
(あ~)
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