逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

Kindle 7th Ed

生活リズムが崩れた10月の頭、ヤマトの配達員が鳴らすチャイムで飛び起きた。
第7世代のKindleの発売日だ。

これはほとんど衝動買いに近かった。9月の18日に突如Amazonのウェッブページに現れた新端末は、すぐさま僕に予約されてしまった。

今回購入したのは、Kindle Voyageではなく、廉価版のKindle――いい加減AmazonKindleの最新端末の名称を単なる「Kindle」にするのをやめるべきだ――である。

左はKindle Keyboard――これも発売当時はKindle Latest Generationというひどい名前だった――である。Kindle Keyboardの方が、薄くて丸っこいために持ちやすく、またページ切り替えは両サイドのボタンなので、片手で掴みながらページをめくることができる。従って、Kindle Voyageの方が操作性は随分良いのだろうと推測される。

この廉価版(6,980円!)Kindleは、極めて安っぽい。高級感など無い。子供のおもちゃみたいで、投げればすぐに壊れそうである。


僕にはそれで良かった。


どうもこのころ、所謂「ガジェット」――この言葉は大嫌いだ――にワクワクすることが無い僕にとって、Kindleは本であり、安っぽくなければならなかったのだ。


ページめくりが随分スムーズになっている点は評価するし、他に評価すべき点も無い。



Kindle Keyboardが出たとき、僕は高校3年生。ちょうど高校は体育大会の準備も佳境というころだった。初の日本語対応(のくせに日本では売らない)ということもあって、Twitterは沸き、Kindleの情報サイトやブログも散見された。

当時の為替は1ドル90円ほどにまでなっていたので、またとないチャンスであった。ところが、送料込みで$220.48という価格は、すぐに出せるものでは無かった。

Amazonは配送時にクレジット決済するので、いつ円安になるかも分からない(結局2年後の衆議院解散まで円安はさらに続くのだが)状況では、Amazon.comのギフトカードを買っておくのがコツだという情報を仕入れ、200ドルのギフトカードを購入し、そしてその場でKindleを注文したのであった。

あのときも衝動買いであったが、その動機はワクワク感にあった。日本市場はまだ開拓されておらず、洋書しか読めないことは分かっていたが、それでも随分使える算段だった。

結局一浪している間に洋書を1冊読む程度の使用頻度になってしまった僕のKindleだが、最も活躍したのは、東日本大震災、3.11の時であった。
あの日、東工大の入試のために一人上京していたのであった。大岡山に行く手前、目黒線洗足駅で下ろされたのを今でもよく覚えている。

大岡山のタクシー待ちの列で携帯電話のバッテリーが切れたとき、僕が持っていた通信できる末はKindleだけになってしまった。

当時のKindle 3G版は、Amazon以外のウェブページを見ることもできた。僕はKindleTwitterをしていた。Kindleには日本語変換プログラムが入っていなかったから、有志が作ったAjax版のIMEを使っていた(Tweet機能付きの「つぶやきんどる」というアプリケーションである)。日本語変換の能力は、3年半前のそれの方が、最新版Kindleのそれよりも随分勝っている。

Kindleは驚異的なバッテリーの持ちを実現している。ブラウザはAjaxにも対応していたので、Gmailにログインし、家族と連絡を取りたかったのだが、ドメイン指定受信に拒否されたのだった。



この安っぽい端末で最初に読んだのは、かもめのジョナサン完全版である。高校入学前の読書感想文の宿題のために読んだのを思い出した(結局「老人と海」で感想文を提出した)。
僕は本を読まない。それでも随分読み方が変わっているものだなと感じた。
短い本なのですぐに読めるが、随分とすんなり入ってくるものだ。これを成熟とみるか、成長とみるか、あるいは経験とみるか。

このダイアリーは浪人中の思索を中心に書き留めてきた。思索は僕にとって読書の代わりだった。今だってそうである。そろそろ外部との接点を持っても良いのではないか。今回は、その意思の表れでもある。