逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

死について考えた

 先日,葬儀に参列した。

 「あと1週間だって」

 夜にこう言われて,驚いた。床に就くと,何だか胸騒ぎがした。

 ところで,一体死ぬということは,どういった機序で起こるのか。全然知らなかった。少し考えてみると,例えば事故で肉体がバラバラになってしまったとすると,物理的破壊で即死という理解ができる。老衰や病気の場合は,結局何がどうなって死ぬのだろう。

 心臓の病気で心臓が止まるとか,脳の病気で脳が止まり,脳が止まったために呼吸や心臓が止まるというのは分かる。もっと慢性的な,老衰とか,がんとかはどうなっているのだろうか。

 まず死因について調べると,論文*1(と呼べるものなのかは分からない(医学では症例報告などもあるから))がヒットした。これによれば,「腫瘍死」「非腫瘍死」なるものがあり,腫瘍死では,全身浸潤,肺,心臓,消化管があると分かった。なるほど,つまり腫瘍が広がって,肺や心臓が機能しなくなるということである。これが多臓器不全というやつなのだろう。

 次に経過について調べると,死期が近づくと,食事量が激減し,一日のうち寝ている時間が増える。さらに近づくと,尿量が減り(水分が代謝できず体内に残る;点滴をし続けるとむくんでしまう),下顎呼吸が始まるとおおよそ数時間以内に死ぬということであった。

 ここまで調べて眠りに就いたのだが,3時間後に起こされた。朝まで持たない,と。

 急行すると,先ず目に入ったのは衝撃的な光景だった。医療者ならば見慣れているのかもしれないが,死ぬ間際というのはこうも死にそうなものかと思った。そしてハッとした。下顎だけが上下していたのである。予習の甲斐あって,下顎呼吸だとすぐに分かった。

 コミュニケーションは取れない。そういう意味で,看取りというのは一方的なものだ。耳は最後まで聞こえていると言われるし,研究でもそれが示唆されている*2から,話しかけるばかりである。返事が欲しいならば,もっと前に済ませておくべきであると分かった。

 一体看取ることにどの程度意味があるのか。問を立てたばかりで,答えは出せそうにない。普段コミュニケーションを取っていない親族がやってきて,ああだこうだ言って延々と延命がなされる,カリフォルニアから来た娘症候群(The Daughter from California syndrome)なるものもあるらしい。しかし後からやって来てどれだけ延命してもコミュニケーションは取れないのである。後悔先に立たずとはこのことか。

 うってかわって葬儀は全くの別問題である。近頃は葬儀について生前に色々と注文をつけるのが流行っているが,葬儀は死んだ人ではなく,遺された人たちのためのものである。お金がかかって仕方がないから,あるいは単に面倒で直葬家族葬なるものが注目を集めている。これが有用なのは知人が少ない場合だけである。知人が多い故人の葬儀を行わなかった場合,向こう一ヶ月毎日弔問客が家に訪れることになろう。尤も,超高齢社会では,早く死んだ方が葬式を開くことになる。後で死んだ人には知人がいないから,葬儀は要らないのである。

 僕の認識では,「準備していなかった」ことを示すために喪服を着ないのが通夜の形式であったのだが,実際にはほとんどの人が喪服であった。この辺りは地域差もあるかもしれない。小学生の頃,担任が「人生で一番大事なのは葬式だ,葬式でその人がどういう人だったか分かる」と言っていた。というのは,参列者を見れば分かるということであった。これについては今回大変納得した。葬儀に行っても本人と話せるわけではないのだが,やはり最後に,という思いが出てくるのだろう。結果的に旧交を確認する場となり,集った人々で話に花が咲いてしまう部分もあった。

 これを逆手に取ったのが,小松製作所(6301)で社長を務めた安崎暁氏だった。ニュースになったので皆知っていることだが,この方は末期がんが判明した後,生きている間に葬式を行った。参列者は1000人だったそうだ(日本経済新聞)。これならば故人(故人ではない)と話せる。実際に亡くなったときは葬儀は親族のみで行ったそうだ(西日本新聞)。あとから弔問客がぞろぞろ1000人もやってくる,ということは避けられたのではないか。

 自分が死ぬときはどうするのが良いかを考えたが,結論は出なかった。というよりも,自分の死については自分で考える必要はなく,遺された人間が考えれば良いのではないか。それよりも,他者の死に対して自分がどうするかを考えておかないといけないなと思った。

 

*1:田村雄次, 本間学. (1993). 終末期非ポジキンリンパ腫の病態について. 北関東医学, 43(1), 69–87.

*2:Blundon, E. G., Gallagher, R. E., & Ward, L. M. (2020). Electrophysiological evidence of preserved hearing at the end of life. Scientific Reports, 10.