逆にこの時確かにそうなる。

逆に,このとき与式は確かに恒等式になる

夏休みの自由研究

各予備校のセンターリサーチが出た日だったか、夕食の時。

僕「いや〜今年は平均がかなり上がるみたいだ、東大の足切りも高そうだよ」
父「どんくらいだん」
僕「駿台は770点出してた」
父「ほいでも830あるんだから大丈夫だら」
僕「まあね」
祖母「それは今年はみんな頑張ったってことかん」
僕「いや、問題が簡単だった」

祖母の言葉にこう返答したけれど、後から僕はハッとした。

確かに問題は簡単だった気がするけど、それは僕が浪人しているからで、とりわけセンター理科に重点を置いて勉強したからであって、実はそうでもないのかな、だとしたら確かにみんな頑張ったってことになるな...


受験は相対的なものだが、学力は絶対的なものである。そしてこれを測る試験は今のところ無い気がする。


センター試験は、平均点に20点以上の差が見られたら科目間調整を行う。


しかし、もし、その年の物理選択者の成績が抜群に良くて、生物選択者がナマケモノばかりで、平均点が90点と50点とかになってしまったらどうだろう。

予備校は問題の難易度を先に把握しているから、物理易化と書くことは無いだろう。実際に易化していなければ。
しかし平均点が高く出てしまったら。

得点調整が行われ、ナマケモノ生物選択者が得するだけである。


そもそも問題の難易度はどうやって出すのだろうか。人によって感じ方が違う。


そして、もっと不思議なのが、毎年毎年どうして成績分布が正規分布のような形になることが想定されてしまうのだろう。


どんどん分布が右寄りになっていくことが望ましいじゃない。実際。


逆に毎年毎年同じような分布をするってことは、ちっとも教育の質が改善されていないということじゃないの?


底上げをしろっての、底上げを。







小学生の時の夏休みの自由研究を思い出した。
あれって何か意味あるのかね?はっきり言って夏休みの自由研究は時間つぶし以外の何物でもない。ごみである。苦役である。やらせるだけ何の価値も無い代物である。

本来ならば、というか僕の理想では、自然科学に対し(この際社会科学でもいい)、小学生のうちから、何らかの科学的手法に基づいた手法を1つでも学ぶために、論理的に実験観察考察を行うための能力を少しでも身につけるために、行うものだと思う。

しかし、少なくとも僕の小学校では、夏休み直前に大きな紙が配られて、おわり。

当然小学生なんてな〜んにも分かっていないんだから、自由研究なんてたいそうな名前をつけられたところで、「研究」なんて出来やしない。
朝顔の観察日記は研究ではないし、ペットボトルロケット制作も研究ではないし、燃料電池作っても研究にはならないし、全然ダメ。

工作かお絵かきかその程度のことだと思っていたしその程度のことでしか無い。

9月の理科の授業で行われる自由研究の発表会で先生は言う、「それは考察ではないよ、感想だよ。」

でもねあんた、考察も何も一切科学的手法を教わっていないんだから、できるわけ無いでしょう。

僕がやった自由研究は3年生から6年生までずっと「何種類か作って値を比べる」ということをしていただけである。

それが限界だった。そこからどう発展させて良いのか分からなかった。

考察の欄に書いたのは「実験結果」に相違なかった。


夏休み中に10日でもいいから授業を開講して、いろいろな手法を伝授したうえで、なぜそうなるのか考えてみる、ということをやらせないとダメ。
カブトムシ飼うのは勝手だが、何か得るものがあるだけのことをする人は出てこないのが現状では普通である。




あれは無価値の宿題であった。